第5話「一年目の、冬」②
誕生日の朝は、手首の中で始まった。
目が覚めて、まだ枕の上にいるうちに、右手首の石へ指先を伸ばす。いつもの手順で、今日の分をひとつ、送る。それから、少しだけ待つ。
届いた。
届いて——引かなかった。
いつもなら、指先ひとつぶんの小さな明るさが、ぽっと点いてすっと引いていく。今朝のそれは、点いたまま、手首の上にとどまっていた。ひと呼吸。ちょうど、ひと呼吸ぶんだけ、長く。
言葉はひとつも載っていないのに、それが何を言っているのかは、分かってしまった。
——おめでとう。
枕に顔を半分うずめたまま、私は、灯の残りが消えていくまでじっと右手首を胸に抱えていた。
一年前の朝、教室の机の下で受け取ったのと、同じ長さ。同じ言い方。
場所も季節の空も何もかも変わってしまったのに、この長さだけが、変わらずに海を越えてくる。
覚えていて、くださった。
戦の一年目の冬の、帝都の朝のどこかで。私の知らない、戦の中のお仕事と、私の知らない朝の支度と、そのぜんぶの真ん中で——アルフォンス様は、今日が私の生まれた日であることを覚えていてくださった。
灯が消えてしまう前に、私はもういちど石に指先を置いて、お返しの小さなひとつを送った。ありがとうございますの代わりに——私も、ひと呼吸だけ、長く。
十四歳の最初の涙が、少しだけ、枕に落ちた。
悲しい涙ではないから、数えないことにする。
寝台を出て、顔を洗って、丸い瓶底眼鏡をかける。
鏡の中の自分は、昨日と変わらない。十四になっても、眼鏡は同じ眼鏡で亜麻色の髪は同じ髪で、猫背の癖もそのままだ。去年の誕生日の朝も、私は同じことを思った。鏡の中の自分は昨日と変わらない、と。
変わらない私のまわりで、変わったものだけを、指を折って数えられる。
教室が白い部屋になり、机の下の石が、枕の上の石になった。三歩後ろに、足音がふたつ増えている。そして——今日という日を知っている人の数が、増えた。
朝の膳が、いつもと違った。
白い小さな花が、一輪、盆の隅に添えられている。スープの器がいつもより上等で、焼き菓子がひとつ、多い。膳を運んできた女官の人が、盆を置いて、両手を前に揃えて深く頭を下げた。
「お誕生日、おめでとうございます」
「……ありがとう、ございます」
どうして知って——と言いかけて、やめた。
この王宮は、私のことを、何でも知っている。船便の照会にどう答えるかまで帳面に書いてある場所が、私の生まれた日を知らないはずがない。私の今日も、どこかの帳面の、どこかの行に書かれるのだろう。「娘、十四歳の誕生日を迎える」——処遇の記録の、一行として。
でも。
顔を上げた女官の人の目は、帳面の目ではなかった。
「あの……お口に合うと、よいのですが。焼き菓子は料理長が、その、腕によりをかけると申しまして」
言いながら、少しだけ、はにかんでいた。命じられた祝いなら、こんな顔はしない。この人は、本当に、祝ってくれている。便なしと回答することと私の誕生日を喜ぶことが、この人の中ではたぶん、両方とも本当なのだ。
「……嬉しいです。料理長さんに、ありがとうございますとお伝えください」
心から、そう言えた。心から言えたことに、自分で少し、ほっとする。
焼き菓子は、優しい味がした。
木苺の載った、小さな焼き菓子。ひと口かじって、ふと、手が止まる。木苺——去年、セドリック様が人払いのお礼にアルフォンス様へ求めたのも、購買の木苺のタルトだった。二個だ、今日の俺は働いた、と言って。
思い出して、少しだけ笑って——それから笑ったまま、胸の奥が軋んだ。
祝われている。
ちゃんと、祝われている。灯が来て、花が添えられて、焼き菓子が焼かれて——おめでとうございますと頭を下げてもらって。去年の私が聞いたら、信じられないくらい、たくさん祝われている。
なのに。
この「なのに」の続きに置く言葉を、私はまだ見つけられずにいる。探せば、たぶん、見つかってしまう。去年の放課後の、あの何もなかった旧図書室の方へ、探しに行けば。だから今日はまだ、探さない。
見つけられないふりのまま、木苺の甘さだけが、舌の上に残った。
十四歳の朝。届いた灯と、木苺の甘さと、まだ言葉にしない「なのに」。
※noteでも毎朝連載中




