第5話「一年目の、冬」③
昼下がりに、届け物がひとつあった。
包みを開けると、本だった。濃い緑の表紙の、水の理の本。ヴィルフリート様にお借りして三度読んだ、あの本の、続きの巻だ。表紙の内側に、小さな紙が一枚、挟まっていた。
——十四歳の一年が、あなたの知りたいことへ、一歩でも近づく一年でありますように。
署名は、頭文字だけ。祝いの言葉の型を、きれいに外した添え書きだった。おめでとうでもお健やかにでもなく、知りたいことへ近づく一年を、と。
この方の贈り物は、いつも、私を子ども扱いしない。
知りたいことへ、近づく一年。……ヴィルフリート様は、私がいま何を知りたがっているのか、どこまでご存じなのだろう。船のこと。檻の鍵のこと。それから——戦の、終わらせ方のこと。添え書きの短い一行が、あの書斎の「調べたいことがある」と、どこかで繋がっている気がしてならない。
本を胸に抱えて、少しだけ、笑った。読むものができた。この白い部屋の冬に、読むものがあるのとないのとでは、ぜんぜん違う。ありがたいことだった。本当に、ありがたいことなのだ。
午後の白い部屋は、静かだった。
冬の午後の光が、窓から斜めに入って、床に長い四角を作っている。水路の音も、廊下の足音も、遠い。三歩後ろのおふたりは、扉の外だ。部屋の中には、私と新しい本と、水盤だけ。
静かだ。
とても、静かだ。
——去年の今日も、静かだった。
思い出は、勝手に戻ってくる。放課後の、旧図書室。埃が光の帯の中でゆっくり回る、あの部屋。飾りも菓子も包みもなくて、机の上には去年も本があって——向かいに、アルフォンス様がいらした。
人払いをしてもらった部屋で、ふたりとも、たいした話はしなかった。本の話を少しと、水の話を少し。それから、長い、静かな時間。沈黙が気まずくならない人と過ごす沈黙が、世界にあんなにあふれるものだなんて、あの日まで知らなかった。
帰りぎわの、あのひとこと。
——……十四。
違う。あの日は、十三だ。……十三、とそれだけ仰って、耳を赤くして窓の方を向いてしまわれた。言い直しも、続きもない。なかったのに、あの裸のひとことが、私の十三歳ぜんぶのいちばん大きな贈り物になった。
あの日、アルフォンス様が私に贈ると決めてくださったのは、物ではなくて、あの静けさだった。
そして今年の部屋も、静かだ。
去年と同じくらい——ううん、去年よりもっと、静かだ。なのに。
なのに、の続きが、光の四角の中に音もなく降りてきた。探しに行かなくても、向こうから来てしまった。
静けさには、種類がある。
去年の静けさは、ふたりで分け合った静けさだった。黙っていても隣に息があって、ページをめくる音があって、時どき目が合いそうになって合わない——あの落ち着かなくて幸せな静けさ。
今年の静けさは、ひとりに残された静けさだ。
同じ「何もない午後」なのに、中身が、まるで違う。花も焼き菓子も灯もあって、去年より祝われているのに去年がなつかしくてたまらないのは——足りないものが、物でも言葉でもないからだ。
隣が、足りない。
隣、なんて。平民の特待生が、侯爵家の嫡男の隣を欲しがるなんて。去年までの私なら、思うことさえ、自分に許さなかったはずだ。身の程は、誰に言われるより先に、自分がいちばんよく知っていた。
その私が、いま、当たり前みたいに「隣が足りない」と思っている。……アルフォンス様のせいだ。あの席を、あの静けさを、当たり前の場所にしてしまわれた——あの方のせいだ。
たった、それだけのことだった。それだけのことに名前を付けるのが怖くて、朝からずっと、探さないふりをしていた。
水盤の前に座って、水を呼んだ。
呼んで、待って、帰す。稽古はいつもどおり、三度。手は勝手に動いて、水はちゃんと来て、ちゃんと帰っていく。三度目の水を帰し終えて、私は、濡れた指先をしばらく見ていた。
名前を付けたら、思ったより、凪いだ気持ちになった。
檻に名前を付けた夜と、同じだ。戦に名前が付いた日と、同じだ。怖いのは名前のない間だけで、名前が付いてしまえば、欲しいものの形がはっきり見える。
私が欲しいのは、隣だ。
花でも菓子でも、祝いの言葉でもなくて。ひと呼吸長い灯は世界でいちばん嬉しくて、それでも灯は、隣の代わりにはなれない。
だったら、来年の誕生日までにすることは、決まっている。
終わらせ方を探して、帰り道を探して——来年の「何もない午後」は、隣で過ごす。去年と同じ、ふたりぶんの静けさの中で。
窓の光の四角が、少しずつ、夕方の色に変わっていく。
十四歳の午後が、暮れはじめていた。
贈り物は本と、一行の言葉。来年の午後は、隣で。
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