第5話「一年目の、冬」④
誕生日の夜は、水の息の匂いがした。
夕食の膳にも、小さな祝いの菓子がついていた。廊下の向こうで、女官の人たちが、今日はいつもより柔らかい声で話している。おやすみなさいませ、の挨拶も、心なしか丁寧だった。この王宮の善意は今日、私にできる限りの祝いを、型のとおりに心を込めてしてくれた。
灯りを落とした部屋で、窓辺に立つ。
窓の手すりに、何かが降りた。
降りた、というより、落ちてきた。白い海鳥が、手すりの上で一度つるりと滑り翼をばたつかせて、やっと立ち直る。
大きい。手すりに立つと、頭が私の胸の高さに来る。畳んだ翼だけで、窓の幅の半分を塞いでいる。海鳥をたくさん見てきたわけではないけれど、こんなに大きなものは、港でも見たことがない。大きいわりに、着地が下手な鳥だ。
目が、合った。
海の色をした、まるい目。瞬きもせずに、まっすぐ、私を見ている。景色を見る目ではない。娘一名を見る目でも、処遇を見る目でもない。ただ、私を、私として見ている目だ。そういう目で見られたのは、この王宮に来てから、初めてかもしれなかった。
動けずにいると、鳥は手すりの上を一歩だけ、こちらへ歩いてくる。
手元に、夕食の祝いの菓子の残りがあった。震えそうになる指でくずにして、手すりの上に置く。鳥は、私の目を見たまま、ひとつついばんだ。
翼の付け根に、白ではない色が少しだけある。井戸端の、夏の麦畑の色だ。
「……ムギ」
呼んで、待った。
一拍あって、鳥が短く鳴く。
応えた——と、思ってしまった。呼んで、待って、応えが返る。水盤の前でしていることと、同じ形で。胸の奥で、小さく何かが点いた。
この鳥は、何の役にも立たない。手紙も運ばないし、灯の代わりにも隣の代わりにもなれない。ただ、そこにいる。それでいい。今日、私は足りないものの名前をひとつ見つけて——そして今夜、名前をひとつ贈った。贈った名前に、応えてくれる相手がいた。
夜の水路に、湯気がうすく立っている。水の息。冬のあいだじゅう、都は自分の息の中で暮らす。息の中の都の灯が、水面でゆらゆらと伸びたり縮んだりしていた。
十四歳の最初の一日が、終わろうとしている。
灯が来て、花が来て、焼き菓子が来て、本が来て。そして午後の光の中で、足りないものの名前を、ひとつ見つけて。長い一日だった。長くて、賑やかで、優しくて——遠い一日だった。
寝台に入る前に、右手首の石へ、指先を置く。
夜のひとつが、届く時間。目を閉じて、待つ。
届いた。
届いて——今夜も、引かなかった。
ひと呼吸。朝とちょうど同じ、ひと呼吸ぶんだけ、長く。
息が、詰まった。
朝の長い灯は、おめでとう、だった。では、夜のこれは、なんだろう。おめでとうは、朝にもう、もらっている。同じ日に二度は、言わない人だ。だったらこれは——今日という日の、閉じ方だ。
海の向こうの、私の知らない帝都の夜のどこかで。今日がどんなに忙しい一日だったのだとしても、その終わりに石へ指を置いて——ひと呼吸ぶん私のことだけを考えてくださった時間が、今夜たしかにあった。
朝、ひと呼吸長い灯で、私の誕生日を開けてくださった。
夜、ひと呼吸長い灯で、私の誕生日を閉じてくださっている。
一日まるごと、両側から、挟むように。海の向こうの戦の一年目の帝都から、会えないまま言葉もないまま——それでも今日という日の最初と最後だけは、自分の手で触れると決めて。
「……もう」
声が、暗い部屋に、小さく落ちた。
暗くて、よかったと思う。いまの私は、たぶん、誰にも見せられない顔をしている。眼鏡は掛けたままなのに、素顔よりも、素顔の顔を。
もう。こんなことを、されたら。足りない足りないと午後じゅう思っていた自分が、恥ずかしくなってしまう。足りないのは本当で、隣が欲しいのも本当で——それでも両側から挟まれた檻の中のこの一日は、世界でいちばん大切にされた一日だった。
私も、返す。
指先に今夜のぶんの灯をともして、ひと呼吸長く、石の上にとどめる。分かっていますよ、の、ひと呼吸。受け取りましたよ、の、ひと呼吸。それから——来年は隣で、の、ひと呼吸。
灯を離すと、部屋は、また夜に戻った。
寝台の中で、天井を見ながら、考える。
今日で、この王宮に来てから、三つの季節が過ぎたことになる。春のはじめに来て、夏が過ぎ秋が過ぎ、冬が来た。灯の数はもう数えないことにしているけれど、朝と夜の往復の数だけは、体のどこかが勝手に覚えている。
あと何度、この朝と夜を数えたら、帰れるのだろう。
分からない。船はなくて、檻には鍵があって、鍵の持ち主にはまだ会えてもいない。戦は始まったばかりで、終わらせ方は、ひとつも見つかっていない。何もかもが、遠い。
——でも。
待つだけの日々には、しない。
朝と夜のあいだに、解き方を探して、終わらせ方を探して。ひとつずつ進んで——いつかの朝に、帰るのだ。
その朝が来るまで、私の毎日は、朝と夜のふたつの灯の点でできていく。点と点のあいだに、一日ぶんの生活を、ちゃんと生きて詰めながら。
目を閉じる。
右手首の奥に、今日のふたつの長い灯の余韻が、まだ残っている気がする。
去年の私は、祝われることが、怖かった。期待して裏切られるのが怖くて、指折りかぞえる自分を隠していたのだ。今年の私は、祝われて、足りないものの名前をちゃんと見つけて——来年の約束までした。
一年で、ここまで来たのだ。だったら来年の私も、きっと、もう少し先まで行けている。
おやすみなさい。
——また、朝に。
誕生日の夜、窓の手すりに落ちてきた白い友達に、名前をひとつ贈りました。
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