第6話「出所のない、紙」①
冬の帝都に、雪が来た。
初雪は夜のうちに屋根を白くして、朝には道の轍だけが黒く残った。屋敷の火の番が増え、廊下の空気が硬くなる。戦の一年目の冬は、暦の上の冬より、ひとまわり寒い顔をしていた。
当主代行の一日は、文の束から始まる。
父が発ってから、この家に届く文はすべて、いちど書斎の机を通る。
前線からの報。武門の家々の回状。商いの文。見舞いと、儀礼と、頼みごと。家令が朝のうちに種類ごとへ分け、急ぎに印を挟んで、机の右肩へ積んでおいてくれる。
アルフォンスはそれを、朝の紅茶が冷めるまでに一度ぜんぶ読む。読めない日は、当主代行の名がただの飾りになる。そう決めて、この冬を過ごしてきた。
その朝の束の、いちばん下に、その一枚はあった。
封蝋が、ない。
差出人の名も、家紋も、ない。宛名だけが、フェルドラク家御中、と癖のない文字で書かれている。紙は上等でも粗末でもない、どこの文具屋にでもある白さだった。
中身は、一枚きり。
——アクアニア水軍、北岸三港の冬季配備。船数、喫水、交代の周期。
読み進めるうちに、指先が冷えていくのが分かった。
そして数字の並びのいちばん最後に、短い一文が添えられていた。
——貴家の御武運を、祈る。
祈る、と書いた手が、どこの誰とも名乗らない。
詳しい。詳しすぎる。港の名も数字も具体的で、書き方には軍の報告書の型の癖まである。これが本当なら、前線の備えの絵が、ひとつ変わる。父の立っている海の、風の向きが変わるかもしれない。
——本当なら。
アルフォンスは紙を机に置いて、いちど、手を離した。
出どころのない正しさは、まだ正しさではない。父の書斎で覚えた数少ない実務の型の、いちばん最初のひとつだ。文には、必ず出どころがある。出どころには、必ず思惑がある。思惑ごと読んで、はじめて文は読めたことになる。
この紙には、読むべき思惑の、顔がない。
「ハンス」
呼ぶと、扉の外から、いつもの足音がひとつで入ってきた。
「この文が届いた経緯を、家令に確かめてくれ。門か、使いか、紛れか」
「かしこまりました」
ハンスは紙を検めるでもなく、一礼して下がっていく。訊かない人の背中が、今日はいつもより頼もしかった。
答えは、昼前に戻ってきた。
「門番の申しますには、朝の文の束に、いつのまにか挟まっていたと。使いの姿は、誰も見ておりません」
家令は、そこでひとつ、言いにくそうに間を置いた。
「それから——同じような文が、ほかのお家にも届いているそうでございます。クロイツ様のお屋敷にも。昨日は、南のいくつかのお家にも。いずれも、差出人はなく」
「中身は」
「それぞれ、少しずつ違うと。ただ、どれも……妙に、詳しいと」
書斎が、静かになった。
一枚なら、悪戯で済む。二枚なら、偶然かもしれない。家々に、少しずつ違う中身で同じ顔のない紙が届く——それは、もう配達だ。誰かが、名を伏せたまま、この国の武門の家々に何かを配って回っている。
「……文は、預かる。父上への報告に載せる。ほかの家がどう扱ったかも、分かる範囲で」
「かしこまりました」
家令が下がってから、アルフォンスはもう一度、その紙を手に取った。
癖のない文字。上等でも粗末でもない紙。どこの誰でもない顔をするために、どれだけ丁寧に整えられているか——整えられていること自体が、この紙のいちばん雄弁なところだった。素人の悪戯は、ここまで無色になれない。
誰だ。
思惑の方から、考えてみる。この紙で得をするのは、誰だ。帝国がこれを信じて動けば、動いた分だけ、戦は深くなる。信じなくても、疑いの種は残る。どちらに転んでも——火は、太る。
火が太って得をする者の顔を、アルフォンスはまだ、ひとつも知らない。知らないが、今朝はじめて、その顔が世界のどこかにあることだけは分かった。
問いは、立てられる。答えは、まだどこにもない。
夜、報告の文を書き終えて、窓の外を見た。
雪はやんで、月が出ている。白くなった帝都の屋根の連なりの、どの屋根の下にも、今朝と同じ顔のない紙が届いているのかもしれなかった。
戦のはじまりは、鐘と太鼓で来た。うるさいくらいに、音を立てて。
いま来ているものは、音を立てない。封蝋も名前もなしに、朝の文の束へ、いつのまにか挟まっている。
胸の奥で、夜のひとつが届く。いつもどおりの、小さなひとつ。
その変わらない小ささを確かめてから、アルフォンスは灯りを落とした。
名前のない差出人が、名前のある家々の扉を、静かに叩きはじめている。
封蝋のない、差出人のない紙。捨てられない、が狙いです。
※noteでも毎朝連載中




