第2話「善意の、檻」①
帰り支度というものは、こんなに楽しい作業だったのか。
朝の稽古を終えてから、私は部屋の隅に、小さな山をふたつ作りはじめた。
持っていくものの山と、置いていくものの山。
寝台の上に旅の鞄を開いて、ひとつずつ、手に取っては決めていく。
服は、少しでいい。来た時も、少しだった。
書き溜めた稽古の帳面は、ぜんぶ持っていく。
母様に見せたいからだ。井戸端のあの手つきを、私は言葉でも書き留めてきた。呼んで、待って、帰す。頁をめくれば、この半年の朝が全部並んでいる。
ヴィルフリート様にお借りした本は、置いていく——のではなくて、お返しする。
付箋を挟んだところに、お礼の言葉を書いた紙を足した。水の理の本は難しくて、三度読んで、三度目でやっと少し分かった。そのことも、紙に書いてある。きっと、笑ってくださると思う。
それから、市で買った小さな包みがひとつ。
水の都の櫛だ。飴色の、木でできた、水の波の模様が彫ってあるもの。母様の長い髪に、似合うと思って選んだ。テオ様と歩いた市の、あの櫛屋さんの店先で、ひと月も迷って決めたものだ。
兄様には、何も要らない気がしている。
あの人はきっと、帰った顔をひとつ見れば、それで足りる人だ。……それでも、市で見つけた青い硝子のペン先を、こっそり山に入れた。地図に書き込みをする人だから、きっと使ってくれる。使いながら、なんだこれと笑う顔まで、もう見える。
包みは、もうひとつある。
こちらは、まだ中身がない。
アルフォンス様に何か——と思って、市に出るたびに探しているのだけれど、まだ見つからない。
物が悪いのではない。私の方が、決められないのだ。半年ぶんの言葉の代わりになるものなんて、あるはずがないのだから——これはたぶん、見つからないまま船に乗る。
それでいいような気もしている。渡すものなら、もう、決めてあるのだし。
昼前に、世話役の女官の人が部屋に来て、荷物の山を見て目を丸くした。
「お支度、もう始めていらっしゃるの」
「はい。早すぎました?」
「いいえ、いいえ」
女官の人は笑って山のそばに膝をつくと、畳み方の綺麗でない服をひとつずつ、綺麗に畳み直してくれた。手つきが優しくて、見ていて気持ちがいい。
それから山の中から皺の寄った服を一枚つまみ上げて、これはお洗濯してからお包みしましょうね、と自分の腕に掛けた。
頼んでいないことまで、先回りで整えてくれる。この王宮の優しさは、いつも私の少し先を歩いている。
「船のお便のことは、いま、調べてもらっていますからね。少し、お時間をくださいね」
「はい。ありがとうございます」
調べものには、時間がかかる。それは知っている。
私だって、水の理の本を三度読んだ。急かすようなことでは、ないのだ。
「お帰りになったら、まず、何をなさるの」
畳みながら、女官の人が訊いてくれた。だから私は、指を折って数えた。
「まず、母に謝ります。心配をかけたので。それから、家の井戸端で、覚えてきた手つきを見せます。母の手つきなんです、もともと。それから——」
それから、父様の畑を手伝います。素焼きの杯で、井戸の水を飲んで。
それから。学院に戻って、残していただいた籍にお礼を言って、机を拭いて。旧図書室の窓を、開けて。
「——会いたい人に、会います」
最後のひとつだけ、少し小さな声になる。女官の人は畳む手を止めずに、そう、とだけ柔らかく言ってくれた。
午後、荷物の山はもう少しだけ育った。
置いていく山の方が、ずっと大きい。
この部屋でもらった優しいものたちは、ほとんど持っていけない。白い部屋も、水盤も、窓の外の水の音も。半年ぶんの重さは、鞄には入らない。入らないから、胸に入れて持って帰る。
夕方、鞄の底に、いちばん最初のひとつを入れた。
小さな革の袋に入れた、井戸の水の小瓶。家から持ってきた、帰る水だ。
行きの荷物のいちばん底にいたものが、帰りの荷物でも、いちばん底にいる。この小瓶が家の井戸に帰る日が、私が帰る日だ。
窓の外で、秋の夕方が、水の色に暮れていく。
支度というのは、帰る場所のある人にだけ、できる作業なのだと思う。
だとしたら私はいま、とても幸せな作業をしている。山がひとつ育つたび、帰り道が一歩ぶん、確かになっていく。
——また、朝に。
今夜も、夜のひとつを送って、眠る。アルフォンス様に会える日まで、あと、いくつの朝だろう。数えられる日が、もうすぐ来る。
帰り支度というものは、こんなに楽しい作業だったのか。
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