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第1話「名のない、朝」④


夜の白い部屋に、水明かりが低く満ちている。


今日、最初のひとつを頼んでみた。世話役の女官の人に、船の便のことを。帝国へ渡る船はいまどのくらいの間隔で出ているのか、調べてもらえませんか、と。


女官の人は、盆を持つ手を、ほんの一瞬だけ止めた。


「……お帰りに、なるのですか」


「はい。秋のうちには、と思っていて」


「そうですか」


それから、いつもの笑顔に戻って、調べておきますねと言ってくれた。いつもどおりの、丁寧で優しい返事だ。手が一瞬止まったのは、きっと、急なお願いに驚かせてしまったからだろう。


帰り道のことは、テオ様が動いてくれている。帰れるようにする、私が動く——春にそう言ってくださってから、テオ様はずっと言葉のとおりに動いてくださっているのだと思う。このごろ稽古の間にいらっしゃらない日が増えたのも、きっとそのせいだ。


時間がかかっていることは、分かっている。


保護という優しい言葉のかかったいまの私は、桟橋まで歩いて船に乗る、というわけにはいかない身の上らしい。テオ様が作ってくださっているのは船の切符ではなくて、私がこの国から正式に出るための、道そのものなのだと思う。国と国のあいだに道をひとつ通すのだから、季節がいくつか変わるのも、きっと仕方のないことだ。


夏の終わりに久しぶりに稽古の間へいらしたテオ様は、少し疲れた顔で、もう少しだとだけ仰った。


もう少し。その言葉を、私はお守りみたいに持っている。


でも、任せきりにするのは、もう違う気がした。


私の帰り道だ。テオ様の道ができるのを座って待つのではなくて、私も、私にできるところから動く。帰る場所を自分で決めた日から、そう決めている。今日のお願いは、その最初のひとつだった。だから私は、いつもどおりに、ありがとうございますと頭を下げた。帰り道の最初のひとつが、今日、動き出したのだ。そう思うと、夜の部屋の水明かりまで、少しだけ明るく見える。


窓の外に、耳を澄ませてみる。


そういえば、夜の舟の音が、この頃すくない。前は夜半まで、荷を運ぶ櫂の音がぽつぽつと聞こえていたのに、今夜の水路はずいぶんと物静かだ。秋になったからかな、と思う。秋の夜の水は、音まで澄んで、遠くなるのかもしれない。


寝台に入る前に、右手首の石へ指先を置く。


夜のぶんの、小さな灯をひとつ。おやすみなさい。今日も一日、無事に終わりました。明日は、荷物のことを考えはじめます。あなたに会いに行く道を、ひとつずつ、確かめはじめています。


それから、寝台の中で、持って帰りたいものを指折り数えてみた。


稽古の水盤は、持てない。毎朝すこしずつ私に慣れてくれた、都の水も持てない。ヴィルフリート様に借りたままの本と、テオ様の氷の的の、あの澄んだ音も。……数えはじめたら、持てないものばかりだった。この半年で、置いていくのが惜しいものが、ずいぶん増えた。


惜しい。惜しいけれど、迷いはしない。持てないものの多さは、この半年がちゃんと生きた時間だったという意味だ。そして帰る場所は、その全部を数え終えても変わらずに、あの人の隣だ。


言葉は、灯には載らない。載らないぶんまで届いていればいいと思いながら、私は灯りを消した。





同じ夜、帝都の屋敷は、まだ眠っていなかった。


武具庫の灯が、夜半を過ぎても消えない。廊下の奥から、革と金具の音が、規則正しく続いている。名のない支度は、夜のあいだも正確に進む。


父の書斎の灯も、まだ消えていない。


あの部屋の灯が夜半を過ぎても点いている日が、支度の、のひと言から続いている。父があの灯の下で何を読み、何を書いているのかを、息子は知らない。訊けば、答えの代わりに、おまえ自身の支度の話が始まるだろう。だから、訊かない。この家の夜は、灯と沈黙で出来ている。


自室の窓辺で、アルフォンスは一日の終わりを待っていた。


やがて、胸の奥で、水がひとつそっと確かになる。


彼女からの、夜のひとつだ。いつの頃からか、朝の挨拶とは別に、夜にもひとつ届くようになった。理由は、知らない。訊く手立てもない。ただ、この夜のひとつが届くと、海の向こうの一日が今日も無事に終わったのだと分かる。世界中の触れ書きより、確かな報せだった。


指先を胸元の布包みにそっと当てて、彼もひとつ、返す。


おやすみ。こっちのことは、まだ何も心配しなくていい。俺は元気で、今日もセドのタルトを半分食った。……そういうことの全部は、灯には載らない。載らないまま、それでも送る。それが、この頃の夜の締めくくりだった。


明日も、朝が来る。胸の奥の水に触れる朝が。その次の朝も、また次も。世界の支度がどれだけ進んでも、朝の数だけは、誰にも減らせない。





海のこちらとあちらで、同じ言葉がひとつずつ灯って、静かに消える。


——また、朝に。


港の帆柱が増えても、触れ書きが貼り出されても、教室の席が空いても。その言葉だけが、今日も、いつもどおりだった。




その夜更け、帝都の港に、一隻の船が着いた。


タラップを降りた男がひとり、荷も持たずに、夜の雑踏へ紛れていく。


すれ違った港の人足が、ふと振り返った。——男から、海の匂いがした。



第1話、これで幕。最後の三行の男を、覚えておいてください。


※noteでも毎朝連載中


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