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第1話「名のない、朝」③



学院へ向かう馬車の窓から、帝都の朝が見える。


いつもと同じ道の、いつもと違う朝だった。大通りを、軍馬の列がひとつ、南へ下っていく。港の方へ向かう荷車が、数えるのをやめるほど続く。街角には王宮の紋の触れ書きが貼り出されて、人だかりができている。読み終えた者から順に、口が重くなって、人だかりから離れていく。


港の方角の空には、帆柱が増えていた。数が増えただけではなく、見慣れない形の帆がいくつも混ざっている。海が、近くなった気がする。この内陸の帝都で、海の気配がするなんて、いままで一度もなかったのに。


触れ書きに、何が書いてあるのかは、馬車からは読めない。


ただ、読んだ人たちの顔は読める。あの顔を、アルフォンスはもう知っている。数日前の朝の、父の顔だ。読み終えるまで顔色を動かさず、読み終えてから「支度を」とだけ言った顔。この街の全部が、あの朝の屋敷になっていく。




聖アステリア魔導学院。


帝国の最高学府であり、魔力の強さがそのまま階級となるこの国でその頂点に立つ者たちの集う場所——ということに、なっている。アルフォンスにとっては二年目の学び舎で、剣と机の日々の場所で、そして。


瓶底眼鏡の特待生が、廊下側の最前列で静かに息をしていた場所だ。


あの子のいない学院は、春のはじめからだ。まだ半年ほどにしかならない。半年にもならないのに、慣れたかと問われれば、慣れていないと答えるしかない。廊下側の最前列の席は、いまも誰かが座るたびに、少しだけ違うと思ってしまう。




学院の鐘は、いつもどおりに鳴った。


いつもどおりでないのは、教室の方だった。席が、二つ空いている。どちらも武門の家の子で、家の都合、とだけ告げられた。空いた席のひとつは、春までよく笑う声の聞こえていた席だ。家の都合の中身を誰も訊かないまま、笑い声のぶんだけ、教室が広くなった。誰も、それ以上を訊かない。廊下の話し声が、心なしか低い。低いくせに、どの輪からも、同じ響きだけが聞こえてくる。


言葉を、みんなが慎重に選んでいる。父上が、まで言って止まる声。北の演習場が、まで言って辺りを見る目。誰もが同じものの話をしていて、誰ひとり、そのものの名前を言わない。


名前を最初に口にした家が、何かを認めたことになる——そういう空気だけが、廊下に満ちていた。


その代わりのように、別の名前の囁きが、あちこちで低く交わされている。


——海向こうの、魔女の娘が。


——アクアニアの王宮に、いるという話だろう。


深海の魔女。父の世代が、声を低くして口にする、海の向こうの古い名前だ。ひと晩で嵐を鎮め、湖を岸ごと静めたという大魔女の血筋が、いまアクアニアの王宮にいる——噂はいつもそこまで来て急に声が低くなる。低くなった先で、誰もが同じことを考えているのが分かる。港に増えた船。街角の触れ書き。この魔女の噂。——ばらばらに見えるこの三つは、本当はひとつに繋がっているのではないか。あの支度の向かう先は、あの名前のいる国なのではないか。誰も、そうは口にしない。口にしないまま、全員が同じ絵を思い浮かべている。


アルフォンスだけが、その名前の、別の呼び方を知っている。


瓶底眼鏡の、井戸端の、あの子のことだ。


世界が魔女の娘の名前で騒ぐたび、彼の胸の奥では、まるで別の名前が鳴る。世界の騒ぎと胸の奥の名前が、同じひとりを指している——その恐ろしさを、彼は誰にも話せずにいる。




「よお」


昼の中庭で、セドリックが隣に座る。いつもの調子で、いつもの半分の声だった。


「クロイツにも、来たのか」


「二日前にな」


タルトの包みを開けながら、セドリックは事もなげに言う。事もなげな言い方を、するようになった、というべきかもしれない。


「兄貴が行くらしい。装具の寸法を測り直してた。……で、フェルドラクは」


「父が。……それ以上は、まだ何も」


「そっか」


タルトがひとつ、こちらへ突き出される。受け取ると、セドリックはしばらく黙って、中庭の空を見ていた。


「なあ、アル。なんか、嫌な感じだよな」


「……ああ」


「誰も、なんの話か言わないのにさ。全員、同じ話をしてるんだぜ。名前がないってだけで、もう、いない扱いにできると思ってるみたいにさ」


名前がないだけで、いない扱い。


軽口の男の言葉が、いちばん正確なことがある。アルフォンスはタルトを噛んで、答えの代わりに頷いた。名前のないものは、いない。けれど——いないもののほうが街の荷車を動かし、教室の席を空けて、兄たちの装具の寸法を測らせている。


「ま、俺は観客席の男だからさ」


セドリックが、伸びをしながら立ち上がる。


「舞台の上のことは分かんねえけど。……お前が変な顔で学院に来る日は、だいたい何かある日だ。今日のお前、朝から変な顔してるぜ」


「……そうか」


「そうだよ。ほら、直せ直せ。あの子に見せられない顔すんな」


言うだけ言って、セドリックはいつもの足取りで歩いていった。その背中の軽さが、今日はありがたかった。




午後の教練で、また一つ、気づいたことがある。


実技場の的の位置が、遠くなっていた。術式の課題も、精度から速さへ、いつのまにか重心が移っている。それから、治しの術の講義が、倍に増えた。何を治す想定なのかは、誰も言わない。教官は何も説明しない。説明のないまま、教えられるものの形だけが、静かに変わっていく。


的までの距離を目で測りながら、アルフォンスは思った。この距離は、もう、学びの距離ではない。




帰りの馬車で、胸元に手を当てる。


布越しの小さな硬さは、今朝と同じ場所にある。海の向こうの水の都は、この騒がしさを、まだ知らずにいるだろうか。知らずにいてほしいと思う自分と、知らせる術を持たない自分が、同じ胸の中にいる。


名前のないものが、今日も少しずつ、輪郭を太らせていく。


夜になれば、石に触れる。今日の分の、夜のひとつを送る。それだけが、この頃、一日のうちでいちばん確かな時間だった。




※noteでも毎朝連載中

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