第1話「名のない、朝」②
朝は、胸の奥から始まる。
目が覚めて、まだ寝台の上にいるうちに、アルフォンスは胸の奥へ意識をひとつ沈める。
そこには、海の向こうにいる少女の水が、ひとつ眠っている。彼女の右手首の石には、彼の火のかけらがひとつ。おたがいの一番だいじなものを、預け合っている。
その水に、内側から指先で触れるように、今日の分を送る。少しだけ待つと、海を越えて、届く分が返ってくる。指先ひとつぶんの小さな灯が、胸の奥で、ひとつ確かになる。
——また、朝に。
言葉の約束が、彼の一日の始まりの合図でもある。学院の寮でも、この屋敷でも。この習慣が始まってから、どこで目覚めても、朝の始め方だけは一度も変わっていない。
寝台を出て、顔を洗う。
鏡の中に、漆黒の髪と金の瞳。フェルドラクの色をした見慣れた自分の顔——のはずが、この半年で、鏡の方が少し低くなった。
背が伸びて、袖丈を二度直させた。声も変わりはじめている。朝いちばんの声が、時どき、自分でも知らない低さで出る。先週はそれで、ハンスをひと呼吸黙らせた。
あの子は、この声を知らない。
春のはじめの港で別れたときの俺より、いまの俺は少し背が高くて、少し声が低い。
次に会うとき、あの子は驚くだろうか。……驚けばいい。驚いた顔も、見たいものの中に入っている。
黒い革の手袋を、右手から嵌める。いつもの順で、いつもの朝が組み上がっていく。
六つの冬から、勤めのように続けてきた黒だ。いまでは素手より手袋の方が、自分の手らしいとさえ思う。それから、寝間着の胸元から小さな布包みを取り出して、着替えた上着の胸の内側へ移す。
布の中には、石がひとつ入っている。
雫のかたちをした、透きとおった水晶。そのいちばん深い中心に、深紅で中心だけが黒い小さな火が、灯ったまま揺れている。去年の誕生日の夜、あの子から渡ってきたものだ。彼女の水と、彼の火の記憶で出来ていて、溶けない。あの夜から、離したことがない。
部屋を出る前に、ハンスが朝の紅茶を運んでくる。
何も、言わない。いつもどおりの手つきで、いつもどおりの席に、一杯。ただ、この頃の紅茶は、心なしか少しだけ濃い。屋敷じゅうが支度の音を立てはじめてから、濃くなった。それがハンスなりの支度なのだろうと、アルフォンスは思っている。訊けば、気のせいでございましょうと返ってくるに決まっているから、訊かない。
窓の外の空が、秋の色をしている。
帝都の乾いた夏が終わって、朝の空気に、薄い冷たさが混ざりはじめた。この屋敷で見る季節の変わり目を、彼は生まれてからいくつも知っている。それなのに今年の秋だけは、来る前から匂いが違っていた。
屋敷が、変わったのだ。
廊下を行き交う足音が、増えた。武具庫の扉が、朝から開いている。家令の指図の声が、いつもより短く、速い。厩の方から、蹄鉄を打ち直す音が、日に何度も響いてくる。
支度を——あの朝、父がそう言ってから、この家は正確に動きはじめた。何の支度かを、誰も口にしないまま。
行き先の名は、まだない。相手の名も、まだない。あの卓で父に訊いた問いの答えは、数日経ったいまも「まだ、ない」のままだ。名のない何かへ向かって、盾の家だけが、寸分の狂いなく動いていく。武門の家は、名前を待たない。名前が来る前に、支度を終えるのが武門だからだ。
それから、若様と呼ぶ声にも、この頃は揃って同じ響きが混ざる。遠からず発つ人を見る時の、あの響きだ。武門の嫡男が何のために育てられるのかを、この屋敷で知らない者はいない。
その正確さが、今朝は少しだけ、こわい。
朝の鍛錬を、庭でひとつ。
剣を振り、息を整え——最後に手袋の掌を開いて、小さな火をひとつ灯す。焦がさない火。ぶれない火。この火を胸の奥の水のそばに置いて暮らすようになってから、火の制御は、努力ではなくなった。守りたいものの近くで、火は自然に、静かになる。
鍛錬を終えると、屋敷の奥から、家令たちの朝の音が高くなる。
言い続けていることが、ひとつある。
この婚約に、私は同意していません——あの席で記録に残された言葉を、彼は消させていない。折に触れて、言い直している。先週は、母の前でも言った。母は、聞かなかった顔をなさった。聞かなかった顔をするということは、聞こえている、ということだ。撤回されない拒否は、拒否のままだ。それは、今日も生きている。
そして、言わずに守っている問いが、もうひとつある。
相手に名が付く日、その名が、どの海の向こうを指すのか。訊けば、あの子の名前をこの家の卓に載せることになる。だから、まだ訊かない。訊く日が来るなら——その日は、父が選ぶのではない。俺が、選ぶ。
上着の上から、胸元にそっと手を当てる。
布越しに、小さな硬さがひとつ、いつもの場所にある。海の向こうでは、いまごろ水の都に朝が来て、あの子が石に指先を置いている頃だ。
また、朝に。
名前のないものばかりが増えていく屋敷の中で、今朝もその言葉だけが、名前のある約束だった。
アルフォンスは息をひとつ整えて、支度の音の満ちる屋敷の中へ、歩き出した。
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