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第1話「名のない、朝」①



朝は、右手首から始まる。


目が覚めて、まだ枕の上にいるうちに、右手首のブレスレットへ指先を伸ばす。細い鎖に、薄水色の小さな石がひとつ。兄様が私のために作ってくれた守りで——その石の奥にはいま、海の向こうにいる人の火のかけらが、ひとつ眠っている。あの人には、私の水をひとつ渡してある。おたがいの一番だいじなものを、預け合っている。


石に、指先をひとつ置く。今日の分を、送る。それから少しだけ待って、届く分を、受け取る。指先ひとつぶんの小さな灯が、海を越えて、往き来する。送って、受け取って、それで朝がひとつ。


——また、朝に。


アルフォンス様と交わした、この言葉の約束が、私の一日の始まりの合図だ。海を渡る船の上でも都の宿でも、この王宮の白い部屋でも。居場所が何度変わっても、朝の始め方だけは一度も変わっていない。


寝台を出て、顔を洗って、丸い瓶底眼鏡をかける。長い亜麻色の髪を梳いて、上の半分だけをすくって、黒いリボンで低く結ぶ。毛先は、もう腰まである。鏡の中の顔は、この眼鏡ごしに世界を見てきた顔だ。素顔を隠すための眼鏡で、その役目はいまも続いている。これを外した顔を知っているのは、家族のほかには、世界でひとりだけ。掛け慣れて、いまではただの私の顔の一部みたいだけれど——誰の前で外すかは、私が決めている。


窓の外の水が、秋の色をしている。


夏の終わりの、あの重たく光る水はもう引いて——水路の面は薄く高く、澄みはじめた。空気の匂いが変わった。都の水の音まで、心なしか、ひとつ低くなった気がする。秋が、始まろうとしている。


この部屋に来たのは、春の終わりだった。夏が来て、その夏が終わって——いま、窓の外は秋の入り口にいる。この白い部屋で見る、二つ目の季節の変わり目だ。





朝の膳が、少し変わった。


果物が一種類増えて、湯かげんがちょうどよくて、パンが今朝は焼きたてだ。女官の人たちの手つきは、前から丁寧だったのに、このごろはもっと丁寧になった。廊下ですれ違うと、立ち止まって、深く頭を下げてくれる。


散歩に出ようとすると、案内の人が言う。


「今日は、南の回廊がよろしいかと。水の色が、いちばん綺麗に見えます」


南の回廊は、遠回りだ。遠回りだけれど、たしかに水は綺麗に見える。だから私は、すすめられたとおりに歩く。歩きながら、時どき、考える。


それから、このごろ、欲しいと思ったものが口にする前に部屋へ届いていることがある。読みたいと思っていた本。眠りが浅かった翌朝の、少し軽い膳。誰かが、私をとてもよく見ているのだ。大事にされていることと、よく見られていることは、たぶん似た形をしている。その二つの見分けが、この部屋では時どき、つかなくなる。


何かが、丁寧すぎる。


理由を考えても、分からない。私が何かをしたわけでも、何かの日が近いわけでもない。ただ、この王宮の優しさの目盛りがいつのまにか、もうひと目盛りぶん上がっている。優しさに目盛りがあることを、この部屋で暮らして、私は知るようになった。


分からないまま、今日も朝は、いつもどおりに来る。






稽古の間の水盤で、朝の稽古をひとつ。


私の中には、生まれつき、大きな水がある。母様から受け継いだ、深いところから来る水だ。去年、その水のいちばん底が開いてから、水面は元には戻らない。だから毎朝、水盤の前に座って、水を呼んで、待って、帰す。呼ぶだけなら誰でもできる。来てくれた水に、帰っていいよと伝えるのが、この稽古のいちばん難しくていちばん大事なところだ。


開けた本人にも、閉め方は分からない。分からないまま、指一本ぶん、指三本ぶん、手のひらひとつぶんと下げてきた。高いままの水と、暮らしていく。もう、こわくはない。井戸端で毎朝水を返していた母様の手つきは、いまでは私の朝の手つきだ。


稽古を終えて、窓の外の水路を見る。


帰る場所は、決めた。


ほんの数日前の夜に、この胸の中で、はっきりと。胸のいちばん確かな場所に、名前を付けたものがひとつ置いてある。誰にも言っていない。言うのは、海を越えて、顔を見てからだ。


だから、支度を始める。今日から。まずは船の便を調べてもらうこと。それから、荷物。帰り道の形を、ひとつずつ確かめていくこと。誰に頼むかは、もう決めてある。






夜、眠る前に、もういちど石に指先を置く。


朝の挨拶とは別の、夜のぶんだ。帰る場所を決めたあの夜からひとつ増えた習慣で——おやすみなさいの代わりに、小さな灯をひとつだけ送る。返事は、待たない。海の向こうのアルフォンス様の夜が、これで少しだけ確かになればいい。


いつもどおりの朝といつもどおりの夜が、丁寧すぎる平穏のまんなかで、今日も過ぎていく。


明日も、朝が来る。石に指先を置く朝が。それだけは、何があっても変わらない。





第3部、はじまります。海の両側の、同じ朝の話です。


※noteでも毎朝連載中


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