第8話「顔のない、配達人」③(ゼノ視点)
戸口の銀の鈴が、鳴った。
いつもの鳴り方ではない。壁の四枚のうち、いちばん外の一枚に、誰かが触れた音だ。海の匂いの男なら、鈴は別の鳴り方をするように仕込んである。これは、違う。知らない者が、複数。
ゼノは作業台の刻みかけの術式を伏せて、外へ出た。
井戸端には、もう、母様と父様が立っていた。
門の外に、馬車。武装した護衛がふたり、門のところで足を止めている。止めているのではない。止まっているのだ。門の内側一歩のところに張った二枚目の壁は、ゼノが入れると決めた者しか通さない。護衛たちは、自分たちが何に止められているのかも分からない顔で、そこに立っていた。
入れたのは、ふたり。
夏の終わりに来たのは、役人がひとりきりだった。井戸端に立って母様に二言三言を言い、母様が一度だけ井戸の縁を見て、それで帰った。あの時は、誰の名も持っていない。
今日は、違う。
父様より年上の、身なりのよい文官。冬の井戸端に、帝都の絨毯の匂いを持ち込んだような人だ。その半歩後ろに、灰色の長衣の男がひとり。宮廷魔導師の徽章を、襟に付けている。
文官が口を開くあいだ、その男は一言も発さず、ただ母様を見ている。見ている、というより、量っている。
ゼノは母様の三歩後ろに立ったが、父様は違った。父様は、母様の隣に立っていた。三歩後ろではなく、半歩も引かず、ただ隣に。何も言わず、何もせず、井戸の縁に片手を置いて。
「フェルンハイムの、エレナ殿とお見受けする。帝都より参った。——王のお言葉を、お伝えに」
王、と使者は言った。夏の終わりの役人は、誰の名も持たずに来ている。今日の使者は、帝国の王の言葉を持って来た。母様の顔のどこにも、それは届いていない。届かないまま、使者は型どおりに続けた。
「ご息女は、いまアクアニアの王宮に留め置かれておいでだ。わが国は再三、ご帰還を求めている。母上のお力添えがあれば、話は早い。母上が、母上として名乗り出てくだされば——」
娘を取り戻すために、母を差し出せ。そう言っている。
「いまひとつ」
使者は、声を落とした。落とした声の方が、本題だった。
「南の平野は、十年、水がない。麦は三年続けて実らず、井戸は涸れ、村ごと北へ移る者が出ている。海の向こうの理を待つより——あなたの手が、はるかに近い。帝国は、あなたに、望むだけの地位と望むだけの保護を」
母様の目が、一度だけ、南の空の方へ動いた。
動いて、戻る。それだけだ。ゼノは、それを見ていた。
母様が南の平野のことを何とも思わない人なら、目は動かない。動いた。動いて、それでも、戻した。
母様が、桶を、井戸の縁に置く。
その半拍前に、ゼノは、いちばん内側の壁を井戸の縁まで下げていた。来る、と分かっていた。
桶が縁に置かれれば、水が来る。水が壁に触れれば、鈴が鳴る。鳴れば、使者に聞こえる。だから壁を下げた。母様は、息子がそうすることを、確かめもしなかった。確かめる必要が、なかったのだ。
銀に近い金の髪が、冬の光で少し白く見える。深い海の底のような蒼の目が、使者を、初めてまっすぐに見た。麦の匂いのする手は、桶を離れて、膝の脇にただ下りている。
何も、唱えない。指の一本も、動かさない。
井戸の水面が、上がった。
音もなく。ゆっくりと。井戸の底から水がせり上がって、縁のところで——止まった。溢れない。縁のきわで、平らに、ぴたりと止まっている。冬の井戸の静かな水面が、地面と同じ高さで——使者の足元の一歩先まで来て、止まっている。
使者の顔から、絨毯の匂いが消えた。
その後ろで、魔導師の指が動く。測る術式の型を、結びかけて——結べずに、開く。もう一度、結びかける。開く。三度目は、指を上げることもしなかった。量る側の顔が、量られる側の顔に変わっていくのを、ゼノは見ていた。測ろうとして、測れなかった人の顔だ。
母様が水を動かすのを、ゼノは、生まれて初めて見た。来ると分かっていたことと、見ることとは、違う。術式も詠唱も、手の動きも、何ひとつなしに。水が、この人の望む高さまで来て、望むところで止まる。それだけのことが、どれほどのことか——術式を刻む手を持つ者には、分かる。分かってしまう。
そして、それだけしかしなかった。
水は溢れず、誰も濡らさず、誰にも触れない。
使者は、それで、分かった顔をした。
「……ご息女は、いま、敵国の手の中に」
「あの子は、自分で帰ってくる」
母様が口にしたのは、その一言だけだった。
使者は、もう何も言わない。言えることが、ひとつも残っていない顔をしていた。一礼して——礼の角度が、来た時より深かった——門の外へ戻っていく。魔導師は礼もせず、母様から目を離さないまま後ずさりで門を出ていく。護衛は最後まで、門の内へ足を入れられなかった。
馬車の音が遠ざかってから、井戸の水面が、静かに底へ下りていく。
母様は、桶を取って、いつものように水を汲んだ。汲んで、家の中へ入っていく。父様は、井戸の縁から手を離して、母様の後を追う。ふたりとも、ひとことも言わない。使者に言ったあの一言のほかは、その日一日じゅう、母様は何も言わなかった。
ゼノは、井戸端に残る。
母様が動けば、どうなるか。それを考えることを、ゼノはもう何年も、母様に代わってやってきた。母様が名乗り出れば、帝国は母様を確保する。確保した母を盾に、アクアニアと取引をする。妹は、返還の名目から、人質へ変わる。南の畑は、母様ひとりの手で潤うかもしれない。潤うかもしれないが、その手は二度と、この井戸端には戻らない。
母様が動けば、娘ひとりの戦が、母娘ふたりの戦になる。
だから、動かない。動かないことが、南の畑にとっても海の向こうの妹にとっても、いちばん良い手なのだ。母様が何もしていないと思うのは、あの使者だけだ。
四つ角に、外套の裾が、ひとつ消えた。
あの男も、見ていた。帝国の使者が来て、帰っていったのを。母様の水が、縁で止まったのを。
——妹の周りに、海の匂いのする男がいる。
その一行の下に、もう一行、書かずに覚えた。
——母様の周りに、帝国の王の目がある。
夜、五枚目の壁を刻んだ。
何も唱えず、指一本動かさず、井戸の水が縁まで上がって止まる。「あの子は、自分で帰ってくる」。
※noteでも毎朝連載中




