第8話「顔のない、配達人」④
夜、書斎の地図の前で、アルフォンスは五つの印をもう一度なぞった。
今日、増えたものはない。増えたのは、印ではなく、感触だ。学院からの帰りの馬車で、一度だけ、誰かに見られている気がした。振り返っても、大通りには冬の人通りがあるだけで、傘はない。気のせいかもしれない。気のせいでなければ——早い。こちらが探しはじめて、まだ数日だ。
紙を配る者が、俺の顔を覚える番だ、と昨夜思った。思ったより早く、その番が来たのかもしれなかった。
胸の奥で、夜のひとつが届く。いつもどおりの小ささで。
俺も返す。
——また、朝に。
灯りを落としてからも、しばらく、地図の南寄りの五つの印を見ていた。
同じ夜、帝都の王城の、灯を絞った一室。
報告を読み上げているのは、ルミエール公爵だった。宰相にして、公爵家の当主。井戸端へ遣った使者は、この人の家の者だ。王の言葉を持って行き王の言葉の名で扉を開け、戻った報告は、まず宰相の手を通る。それがこの国の、王の恐怖の扱われ方だった。
井戸端へ人を遣るのは、これが初めてではない。夏の終わりに、公爵は内々に、役人をひとり送っている。
役人は、母には手が届かない、とだけ持ち帰った。その報告を、公爵は王に上げなかった。上げれば、王は戦を始めない。触れられない魔女が国内にいると知った王は、その魔女を刺激する戦など、決して認めない。だから公爵は、母のことを伏せて、娘だけを王の前に出した。敵国が握った魔女の血。十年の日照りと、水の理。王は、それで頷いた。
二度目の今回は、王の名を使った。南の麦は三年続けて実らず、海は動かず、母の手が欲しくなったからだ。王の名で出した以上、報告は王へ上がる。
「——井戸の水が、縁まで上がって止まった、と。詠唱も、術式も、手の動きもなく。使者はそのように」
王は、聞いていた。
セヴェリン。帝国の王。壮年の、静かな人だった。声を荒らげたことがない。理由を言ったことがない。
言葉は最小で、その最小の言葉で、この国の恐怖の全部が動く。恐怖で人を動かす体制の頂点に立つ人は、恐怖の使い方を誰よりも知っている。だから、この人だけが、恐れるべきものを正確に恐れる。
「魔導師」
灰色の長衣が、一歩、前へ出た。
「測れたか」
「……測れませんでした」
「測れなかった、とは」
「底が、ございませんでした。測る術式は、相手の魔力の底に触れて戻ってくることで、量を知ります。三度、放ちました。三度とも——戻ってまいりませんでした」
沈黙が、一度、部屋に落ちる。
王は、それから、傍らの侍従に短く言った。
「二十年前の文を」
侍従が下がり、戻るまでのあいだ、誰も口をきかない。戻ってきた侍従の手には、古い綴じ紙がひとつ。南半島の戦の、当時の報告書だった。ノクティスの闇の魔術師団が南から上陸し、半島の民を追い詰め——そこへ海が立った、という報告。海の水が壁になって魔術師団を跳ね返し、民の半分が救われた。壁を立てたのは、十九の娘がひとり。民はその娘を、深海の魔女と呼んで敬った。
帝国は、その場にいなかった。
海の向こうの戦を、報告で読んだだけだ。読んだだけの帝国の中で、敬愛の名は、いつからか恐怖の名に変わった。一国を独りで止めた娘は、伝聞のまま伝説のまま二十年、帝国の恐怖の底に沈んでいた。
王は、その綴じ紙を、自分で読んだ。
誰にも読み上げさせず、最初から最後まで、自分の目で。読み終えるまで、長かった。長い沈黙のあいだ、公爵は口を挟まず魔導師は目を伏せ、侍従は息を殺している。
読み終えて、王は綴じ紙を閉じた。
「——触れるな」
それだけ、言った。
公爵が、わずかに身を乗り出す。
「陛下。しかし、娘の方は」
「娘は、返させろ。母は、触れるな」
理由は、言わなかった。この人は、理由を言わない。言わないまま王は立ち上がり、灯を絞った部屋から、音もなく出ていく。
王の去った部屋に、公爵と、二十年前の綴じ紙が残った。
公爵は、しばらくその綴じ紙を見ている。それから、侍従に写しを取らせた。取らせた写しを、誰にも見せずに自分の懐へ入れる。
母には触れるな。娘は返させろ。
伏せていた母のことを、今夜、王は知った。公爵の経営に、初めて、綻びがひとつ出た夜だった。綻びは、しかし、塞ぐものではない。別の形に組み替えるものだ。
王の最小の言葉は、公爵の手の中で、別の形に組み替えられていく。触れられない母を持つ娘。その娘を返還させることに、王が値を付けた。値の付いたものは、動かせる。動かせるものは、経営できる。
懐の写しの上で、公爵の手が、一度だけ止まった。
娘、と王は言った。深海の魔女の娘。学院の、平民の特待生。その娘のことを、公爵はまだ「娘一名」という呼び名でしか知らない。知らない娘の名を、公爵はその夜、初めて自分の手で確かめてみようと思った。
帝都の、二つの夜だった。
書斎の地図の前で、少年がひとり、五つの印を見ている。王城の一室で、公爵がひとり、懐の写しに手を置いている。
同じ夜、同じ帝都で、同じひとりの娘のことをまるで違う理由で考えている二人のあいだに——霧の朝を待つ、紙を配る者がいる。
王の言葉は明日、顔のない紙になって、どこかの門を叩く。
二十年前の文を、王は自分の目で読んだ。「娘は、返させろ。母は、触れるな」。
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