第8話「顔のない、配達人」②
学院の冬は、椅子の数がまた減っていた。
上級生がひとり家の都合で去り、教師がまたひとり、軍へ呼ばれた。空いた椅子は片づけられず、そのまま置かれている。戻ってくる日のためにという学院の建前と、片づける手も足りないという本音が、同じ椅子の上で黙っている。
昼、中庭でセドリックが言った。
「兄貴から、手紙が来た」
「無事か」
「無事。……で、書いてあったんだけどさ。あの紙、前線にも回ってるんだって」
包みを開ける手が、止まった。
「前線の、どこに」
「兵舎の文の束に、混ざってたって。差出人なし。中身は、敵の水門の配置がどうとか。兄貴、気味悪がってた。海の向こうまで、誰が運んだんだよって」
海を渡っている。
帝都の南寄りに集まっていた五つの印が、頭の中で、一気に地図の外へ広がった。門番の霧の朝から、海の向こうの兵舎まで。紙を配る仕組みは、帝都の中に根を持ちながら、枝は前線にまで届いている。
「アル。これ、もう、俺たちで追える話じゃないだろ」
「……追える話じゃないから、追うんだ」
言ってから、自分の言葉の危うさに、少しだけ気づく。気づいて、それでも取り消さなかった。
セドリックは、開けかけた包みをそのまま膝に置いて、しばらく黙っている。
「……おまえの、そういうとこ」
続きは、言わなかった。
午後、教室の廊下で、呼び止められる。
「——アルフォンス様」
振り向くと、カトリーヌ・ド・ルミエールが、取り巻きを二歩後ろに置いて立っていた。婚約の卓のあの日から、彼女が自分から声をかけてきたことは、一度もない。
「ひとつ、伺ってもよろしくて」
「どうぞ」
「あの方の——廊下側の最前列にいらした、あの方の、お母様は、どのような方ですの」
廊下の空気が、一拍、止まった。
母、と来た。
あの子の名前を、彼女は口にしない。廊下側の最前列、と言う。言わない名前の、その母のことを、訊いてきた。
「——それを、俺に訊く理由を、伺っても」
「……ただの、興味ですわ」
嘘ではないのだろう。興味は、あるのだ。ただ、その興味は、彼女の中から生えたものではない。生えたのなら、婚約の卓から半年も経った今日、いきなり廊下で訊いてくる理由がない。
誰かが、彼女に、その問いを渡した。
袖の内側の紙のことが、頭をよぎる。机の下で行を刻む速さで読んでいた、あの紙。あの紙が、いま、彼女の口を借りて俺に訊いている。
「特待生の家のことは、学院の記録に訊かれるのが筋だ。俺が答える立場にはない」
嘘は、言っていない。答える立場にない、は本当だ。
あの夏、井戸端で会っている。麦の匂いのする手で水を汲みながら、こちらを測るように見ていた人だ。あの人が何者であるかを俺はあの子の口からしか知らないし、そこで知ったことをこの人に渡す理由は、ひとつもない。
——ただ、答えなかったことも、答えのうちだ。
知らないなら知らないと言えばよかった。言わなかった時点で、俺があの子の家を知っていることは、この人に伝わっている。伝わったことを、紙の書き手が明日には知る。
「そう」
カトリーヌは、完璧な微笑で頷いた。
「お答えくださらなくて、ありがとう存じます」
一礼して、取り巻きの輪の中へ戻っていく。プラチナブロンドの結い上げ髪の中で、星型の銀の髪飾りが、廊下の冬の光を撥ねた。
夕方、教室に残って、廊下側の最前列の席を見た。
誰もいない席。冬の光が、机の上を斜めに横切っている。
カトリーヌの問いを、もういちど、頭の中で並べ直す。婚約のこと。髪飾りのこと。そして、あの子の母のこと。彼女に届いている紙は、一通ごとに、あの子の方へ近づいている。婚約の外側から、最前列の席へ。席から、井戸端へ。井戸端から——母へ。
紙の書き手は、あの子の母を、知っている。
知っていて、公爵家の令嬢の口を使って、俺に確かめさせようとした。俺が何を答えるか。俺がどこまで知っているか。それを、紙の書き手は今日、廊下で測った。
報告に、書くべきか。
——まだ、書かない。書けば、この問いの出どころを俺が知っていることを、彼女に知らせることになる。知らせれば、彼女は袖の紙を隠す場所を変える。変えられれば、追えなくなる。
保留が、ひとつ、重くなった。
重くなった保留の分だけ、俺は今日、あの子の母のことを初めて自分で考えた。井戸端で麦を作っている人。同じ色の水を、娘より深いところから呼べる人。帝都の紙の書き手が知っていて、公爵家が知りたがっている人。
その人のことを、いま、誰かが確かめに行っているのかもしれない。
そう思ったのは、根拠のない予感だった。予感のまま、廊下側のあの席を見ていた。
答えなかったことも、答えのうち。廊下の問いは、あの子の母へ近づいていく。
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