第8話「顔のない、配達人」①
戦を、続けたがっている誰かがいる。
そう書いてから、ひと月近くが経った。父からの返信は、まだない。海の向こうの冬は、文の往復ひとつにも季節の一部を使う。待つあいだに、アルフォンスは決めていた。答えが海から戻る前に、こちらで探せるものは探しておく。
問いは立った。立てた者が、動く番だ。
最初に呼んだのは、門番だった。
朝の文の束に紙が紛れた日から、門番の交代の刻を、家令に洗い出させてある。夜明け前、灯を消す前の四半刻。当番が代わるその隙に、門の内側の文箱に何かを差し入れることは——できる。門番は、身をすくめてそれを認めた。
「見張っていなかったわけでは、決して。ただ、その刻は、いつも霧が」
「責めていない。訊きたいのは、誰かを見たかどうかだ」
門番は、しばらく黙ってから、思い出すように言った。
「……一度だけ。ひと月ほど前、まだ雪の来る前に。霧の中を、傘をさして歩いていく者を見ました。雨でも雪でもないのに、傘を。妙だと思ったのですが、通りを行くだけの者でしたので」
傘。
顔を、見せないためのものだ。霧の朝に、雨でもないのに傘をさす。誰でも見られる大通りを、誰にも顔を見られずに歩く方法として、これ以上のものはない。
「背丈は」
「並でございました。並の背丈に、並の外套に、傘。……申し訳ございません、それ以上は」
「十分だ」
並、と三度言われた。並であることに、これだけ揃って気を配っている者がいる。紙の白さと同じだ。何もない、を丁寧に作っている。
次に動かしたのは、ハンスだった。
昼の取次と供回りの合間に、紅茶の葉を買いに出る。その道すがら、市場と文具屋で耳を働かせてもらった。従者は主より広い場所を歩く。歩く先々で、自然に話が集まる。
戻ってきたハンスは、いつもの顔で、いつもの席に紅茶を置いてから言った。
「紙のことでございますが。あの白さの紙は、帝都のどの文具屋でも扱いがございます。出どころは、絞れません」
「だろうな」
「ただ——ひとつ、妙な話を。南の通りの文具屋で、秋口から、同じ紙を束で買っていく客がいるそうで。番頭によれば、身なりのよい使いの者だと。使いですので、主の名は名乗りません」
「南の通り、か」
南には、公爵家の屋敷が並ぶ。それだけで何かが決まるわけではない。文具屋の客など、誰でもいい。誰でもいいはずのことが、ひとつ、また積もった。
「もうひとつ、ございます」
ハンスは、そこで声を落とした。
「クロイツ様のお屋敷の門番と、南のお二家の門番も、同じように傘をさした者を見ております。同じ霧の朝に、それぞれの門の前で」
同じ朝に、別々の門で。
一人では、回れない。少なくとも三人。霧の朝に傘をさして紙を配る者は、一人ではない。配る者が、複数いる。複数の者が、同じ紙にそれぞれの家の事情を書いて、同じ霧の朝に配って回っている。
——組織だ。
海の向こうの誰かが、遠くから糸を引いているのではない。帝都の中に、根がある。この街の中に、家々の事情を集めて紙にして配る仕組みが、もう出来上がっている。
夜、地図の前に立った。
父の外した地図の跡の上に掛けた、新しい地図。帝都の部分に、印をつけてみる。うちの門。クロイツの門。紙を配る者が見られた、南の二つの門。同じ紙を束で買う客がいる、南の通りの文具屋。
印は、五つ。五つを結んでも、まだどこにも辿り着かない。ただ、五つが全部帝都の南寄りに集まっていることだけは、見て分かった。
それから、別のことにも気がつく。
今日一日で、俺は門番に訊き文具屋の番頭に訊き、ハンスに市場を回らせた。訊いた相手は、誰かに話す。番頭は客の顔を覚える。フェルドラクの若様が紙のことを調べている——という話は、明日か明後日には、この街のどこかで語られる。
そしてその街のどこかに、紙を配る者がいる。
今度は、紙を配る者が、俺の顔を覚える番だ。
届けばいい、と思った。
顔のない者は、顔を見られることを何より嫌う。こちらが探していると知れば、向こうは動く。動けば、輪郭が出る。
——動けば、こちらへ来る。
そこまで考えて、指を地図から離した。来るなら来いと思う自分と、来させてはならないと思う自分が、同じ胸の中にいる。当主代行の名は、この家の全員を背負っている名だ。俺一人の好奇心で、紙を配る者を門の内側へ招き入れるわけにはいかない。
慎重に。しかし、止まらずに。父の書斎で覚えた、もうひとつの型だった。
胸の奥で、夜のひとつが届く。いつもどおりの小ささで。
俺も返す。
——また、朝に。
地図の上の線は、今夜もどこにも届かない。届かない線の先で、傘をさした誰かが、次の霧の朝を待っている。
並の背丈に、並の外套に、傘。何もない、を丁寧に作っている誰かがいます。
※noteでも毎朝連載中




