第7話「工事の、はじまり」④
あなただ、と言われた言葉が、すぐには胸に入らなかった。
「わ……私、ですか。平民の、特待生の、私が……そんな、約束の下書きのまんなかだなんて」
「身分の話は、していない」
テオ様の声は、動じなかった。
「両方の水を知る人間の話をしている。帝国の井戸の水を汲んで育ち、深海の血でこの国の理の根に届く人間は、両方の国を探してもあなたひとりしかいない。まんなかに立てるのは、家柄のある者ではなく、両方に届く者だ。……それだけの話だ」
それだけの話、と仰るその中身の大きさに、膝の上の手が少し震えた。
「でも、私……何も、できません。檻の中で、本を読むことしか」
「なら、読め」
「……え」
「この国の水の理を。帝国の土地と水を。両方の言葉で、誰よりも深く。……下書きのまんなかに立つ人間にいちばん要るのは、それだ。船でも、鍵でもない。——兄上の本を、三度読んだそうだな」
「は、はい。続きの巻も、いただいて」
「なら、続けろ。いますぐまんなかに立てとは言っていない。下書きが仕上がる日までに、立てる人間が育っていればいい」
テオ様は、それだけ言って、話を終えた顔をした。
なら、読め。
たった、四文字だった。
ずっと、後ろめたいことだと思っていた。
みんなが戦の中にいるのに、船を探すことも鍵を開けることもできず、白い部屋で本を読んでいるだけの自分を。読むことしかできません、というのは、私の「ごめんなさい」の言い方だった。
テオ様は、その「しか」を、拾って捨ててくださった。
読むことは、逃げでも暇つぶしでもなくて——帰り道の工事の、私の持ち場なのだ。
船の持ち場でも、鍵の持ち場でもなく、本の持ち場。明日から、同じ本が、違う本になる。
「やります」
答えてから、ひとつだけ、どうしても訊きたいことが残った。
「あの……テオ様。ひとつだけ、教えてください」
「何だ」
「その下書きが、いつか本当に仕上がったら——私は、帰れるんですか。それとも、下書きのまんなかに、立ち続けることになるんですか」
テオ様は、すぐには答えなかった。
眼鏡の奥の目が、一度だけ窓の外の水路へ動く。それから、戻ってきた。
「……分からない」
正直な答えだ、と思った。この方は、こういう時に、優しい嘘を選ばない。
「下書きの書き方次第だ。まんなかに立つ人間を、両国が便利な道具として使い続ける下書きも、書ける。役目を果たした人間が、井戸端へ帰っていく下書きも、書ける。どちらの下書きになるかは——書き手が、誰かで決まる」
「書き手……」
「だから、あなたも書く側に回れ」
テオ様は、まっすぐに言った。
「使われる人間のままでいるな。あなたの帰り道が下書きの中にちゃんと残るように、あなた自身の手で、書き込め。そのための力を、いまから蓄えろ。……それが、私からの、工事の依頼だ」
使われる人間のままで、いるな。
名前を使われて戦が始まった。名前を使い返して終わらせる道を、この方は作っている。そしてその道の先で、私が「使われる人」で終わらないようにと——この方はそこまで考えて、今日ここへ来てくださった。
「お引き受け、します」
声は、震えていない。それが自分でも、少し誇らしかった。
帰りぎわ、扉の前で、テオ様は一度だけ振り返る。
「この工事の話は、王宮の中では、誰にも」
「……ヴィルフリート様にも、ですか」
「兄上は、知っている。それ以外には、誰にも。……この王宮には、あなたを下書きの外に置いておきたい人も、いる」
それだけ言って、テオ様は、来た時と同じ静けさで出ていった。
下書きの外に、置いておきたい人。
檻の、いちばん奥の鍵の持ち主のことだろうか。それとも、もっと別の誰かだろうか。分からないまま、その言葉だけを、胸の帳面に書き留めた。
夜、水盤の前に座った。
呼んで、待って、帰す。三度の稽古の、一度目の「待つ」の間に、今日おぼえた言葉が浮かんだ。
共鳴。響きが往って、返ってくる時間。名前を知ったからか、今夜の一拍は、いつもより少しだけ確かに感じられた。
共鳴。術式。理。橋。書き手。
今日ひと日で、この白い部屋に、新しい言葉がこんなに増えた。言葉が増えた部屋は、昨日までより、少しだけ広い。
眠る前に、ヴィルフリート様の本を、枕元に置いた。明日から、読み方が変わる。ただ知りたくて読む本が、今日から、工事の道具になる。
石に指先を置いて、夜のひとつを送る。
——また、朝に。
私の帰り道の工事が、今夜、はじまった。
始まりに名前を使われた人は、終わりにも名前を使える——約束の下書きの、まんなかの人。
※noteでも毎朝連載中




