第7話「工事の、はじまり」③
帝都の外れの井戸端に、冬の朝の氷が張る。
ゼノは、家の戸口の銀の鈴をひとつ鳴らしてから、水汲みに出た。鈴は、ただの鈴ではない。
家の守りの術式の、いちばん外の一枚に繋いである。戦が始まってから、壁は三枚に増やした。
妹のいない家を、妹が帰ってくる日まで、そのままの形で守る。それが、いまの自分の仕事だと決めている。
妹の部屋は、学院へ発った春のままにしてある。
あいつが帰ってきたのは、二度だ。入学の年の夏と、海を渡る前の、別れの帰省と。二度とも、ただいまの続きみたいに、あの机で本を読んでいた。三度目の帰りがいつになるかは、もう誰にも分からない。分からないから、なおさら、そのままにしてある。
その男に気づいたのは、水汲みの帰りだった。
市場の外れで、荷の帳面を繰っている、商人ふうの男。歳の頃は父様より上。番頭らしい落ち着いた身なりで、別に、どこもおかしくはない。おかしくないのに、ゼノの足は、三歩めで止まった。
海の匂いがした。
この内陸の帝都で、海の匂いをまとう者は、めったにいない。戦が始まってからは、なおさらだ。港から来る荷は減り、船乗りは消えた。それなのにこの男の外套には、潮と濡れた木の匂いが、うすく染みついている。
そして——これで、四度目だ。
一度目は、十日前、粉屋の前で。二度目は、五日前、井戸へ続く四つ角で。三度目は一昨日、洗い場の橋のたもと。四度目の今日は、市場の外れ。別々の場所で、同じ男。商人は動き回るものだから、それ自体は不思議ではない。
不思議ではないが、四度とも、男のいた場所からはあるものが見えた。
うちの、井戸端が見えた。
それから、粉屋のおかみに聞いた話がある。あの番頭は、このごろ、井戸の水を買っていくらしい。
毎朝、桶にひとつ。この辺りの水はうまいから、と言って。買った水を男がどうしているのかは、誰も知らない。
ゼノは、荷を担ぎ直して、素知らぬ顔で男の脇を通り過ぎる。
すれ違いざま、男は帳面から顔を上げずに、隣の荷主と何か話していた。低い、落ち着いた声だった。
「——番頭さんも、ずいぶん熱心にお調べだ。うちの荷なんぞ、大した中身じゃありませんよ」
「お務めですので」
それだけが、耳に残った。
お務めですので。商人の言葉としては、何もおかしくない。おかしくないのに、その四文字は、帳面のことを言っている声ではなかった。もっと長い、もっと重いものを担いでいる者の声だった。
家に戻って、ゼノは戸口の鈴を、指の背で軽く弾く。
壁の術式は、三枚とも、静かに生きている。夜までかけて、四枚目を刻み上げた。仕上げの最後に、海の匂いの男の輪郭を、そっと仕込んでおく。あの男が壁のどれかに触れたら、鈴が、家じゅうに知らせるように。
母様には、まだ言わない。父様にも、まだ。
——妹の周りに、海の匂いのする男がいる。
その一行だけを、ゼノは自分の帳面のいちばん奥に、書かずに覚えた。
同じ冬の、帝都の反対側で。
カトリーヌ・ド・ルミエールのもとに、四通目が届いていた。
——御身の婚約を留めているもの。
——その娘の素性を、御家の皆様は、ご存じでいらっしゃいますか。
素性、という二文字の上で、カトリーヌの目は長いあいだ止まった。
これまでの三通は、わたくしのことを書いてきた。婚約のこと。髪飾りのこと。わたくしが知っていて、わたくししか知らないこと。四通目は、初めて、あの平民のことを書いてきている。
素性。
平民の特待生。それ以上の素性など、あるのだろうか。あるとしたら——特別な血、という、あの声がまた蘇る。中央の記録に残るような、特別な血の水よ。
知りたい、と思ってしまった。
思ってしまってから、カトリーヌは、その紙を四つに畳んだ。畳む指が、いつもより一拍、遅い。
畳んだ紙は、引き出しではなく、袖に入れた。入れてから——袖に入れた自分に、気づいた。
海の匂いの男と、顔のない紙と。
冬の帝都のふたつの外れで、音を立てないものが、同じ娘のまわりを静かに回りはじめていた。
娘は海の向こうにいて、まだ、どちらのことも知らない。
井戸の水を毎朝買う男。「お務めですので」と、彼は言いました。
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