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第7話「工事の、はじまり」②


「あなたは、水を呼べる。……呼ぶとは、何をすることだと思う」


最初の講義は、テオ様のその問いから始まった。


「え……水に、来てください、と……お願いする、こと……?」


「半分、正しい」


テオ様は、水盤の水面を指した。


「やってみせてくれ。いつもの稽古を」


言われるまま、水盤に手をかざす。潤いの手、お貸しします——母様譲りの小さな術式を、口の中で低く唱える。一拍待って、水が指先へ応えた。細い水の糸が立ちのぼって、手のひらの上で小さな球になる。いつもの、母様の手つき。


「いま、呼んでから水が来るまでに、一拍あった。あの一拍は、何の時間だ」


「……待って、いました。母様に、そう習ったので。呼んで、待って、帰す。待つのを省くと、水が、その、驚くから……」


「いまの術式は、母上から?」


「はい。潤いの手、といいます。畑の畝に水を導く術式で……」


「いい術式だ。——そして、あの一拍が、答えだ」


テオ様は、眼鏡の奥の目を、少しだけ細めた。


「水は、命令では動かない。呼びかけに応えて、動く。呼びかけた者の内側の魔力と、水の側が、響き合う。響き合いが成り立った時にだけ、水は応える。あの一拍は、響きが往って、返ってくる時間だ。……この往き返りを、この国の理では、共鳴と呼ぶ」


テオ様は、指を一本、立てた。


「整理しよう。術式は、呼びかけ方を形にしたもの。あなたの潤いの手も、都の水門に刻まれた術式も、形は違うが根は同じだ。共鳴は、その根のこと。呼びかけと応えの、往き返りそのもの。そして理は——術式と共鳴のぜんぶを束ねた、この国の水の体系のことだ」


「あの……」


訊いてもいいのか、少し迷って、でも訊いた。


「テオ様の氷も……共鳴、なんですか」


「そうだ」


テオ様は、当たり前のことのように頷いた。


「氷は、水を留める方向の共鳴だ。水に、留まってくれと呼びかける。応えた水が、形を結んで、氷になる。呼ぶ、蓄える、配る——この国の三拍で言えば、真ん中の系譜。俺の氷も水門も潮止めも、根は同じ——留める理だ」


「留める……」


「留めた形がどれだけもつかは、響きの深さで決まる。深く響けば、永くもつ。……それでも、永遠には、もたないが」


最後のひとことだけ、テオ様の声が、ほんの少しだけ低くなった気がした。気のせいかもしれない。


共鳴。


初めて聞く言葉なのに、初めてではない気がした。毎朝の稽古の、あの一拍。呼びかけて、応えが返るのを待つ、あの静かな間。名前を知らないまま、私はそれを、母様の手つきごとずっと繰り返してきた。


「私が毎日していたことに……名前が、あったんですね」


「ある。この国の水の理は、根っこのところ、全部これだ。水を呼ぶのも水門で潮を留めるのも、都の水路に水を配るのも——命令ではなく、共鳴でやる。だからこの国の理は、力ずくの真似ができない他国には、盗みようがない」





「そして、ここからが本題だ」


テオ様は、少し声を低くした。


「共鳴は、ふつう、水としか成り立たない。水の魔導士は水と響く。それだけだ。……だが、記録の上でただひとつの血筋だけが、その先へ行く」


「……その先」


「水だけでなく——他者の魔力とも、響き合う。響き合って、相手の力の形を、自分の水の中に写し取る。他人の火を、自分の水の中に灯すような真似が、できてしまう」


心臓が、ひとつ、大きく鳴った。


他人の火を、自分の水の中に。


あの夜のことを、言われている。誰にも言っていない、あの月の夜のこと。水を凍らせて、記憶の中の火を写して、氷の真ん中に灯した——あの雫のことを。


「……深海の、血」


「そうだ。あなたの母上の血だ。そして、あなたの血だ」


テオ様は、そこで声をひとつ落とした。


「この国は、あなたの母上の居場所を、知らないことにしている。……確かめに行った者は、まだいない。確かめられる深海の血は、いま、あなただけだ」


知らないことに、している。


その言い方の意味が、少し遅れて、胸に届いた。探せば見つかる人を、探さないでいてくれた国。その同じ国が、いま、私を檻に入れている。井戸端で麦を刈り私の髪を梳いていた母様のことを、ひとつも訊かれなかった一年近くの意味を、私は初めて知った気がした。


「……だから、私が、事由に」


「そうだ」


テオ様は、私の顔を見て、それから静かに付け足した。


「何を作ったかまでは、訊かない。ただ、あなたがその血の使い手であることを、私はあなた自身の仕事で知っている」





「話を、帰り道に戻す」


湯気の立つ水路の音が、窓の外で低く続いている。


「帝国が欲しがっているのは、水だ。南の平野の、十年の日照り。あの国は、水を呼び、水を蓄え、水を配る理を欲しがった。この国は、断り続けた。理は、この国の骨格そのものだから、渡せば国が終わる。……ここまでは、いいな」


「はい。ヴィルフリート様に、教えていただきました」


「兄上が話を早くしてくれていて助かる。——では、その先だ。渡せないものを巡って、戦は始まった。終わらせるには、どうする」


「……渡せる形を、探す……?」


「そうだ」


テオ様は初めて、机の上に小さな図を描くように、指を動かした。


「理そのものは、渡さない。渡すのは——理の、恵みだ。南部の日照りの平野へ、水を届ける仕組みを、両国で作る。水路を引き、水門を設け、水を配る。動かすのはこの国の理で、潤うのは帝国の畑。理は海を渡らず、水だけが渡る。……そういう戦を終わらせる約束の下書きを、いま、書いている」


理は渡さず、水を渡す。


その言葉の形の、あまりのまっすぐさに、しばらく声が出なかった。戦の終わらせ方が、誰かを打ち負かす形ではなく、乾いた畑に水を引く形をしている。そんな終わり方が、この世にあっていいのか——あってほしい、と思った。


「でも……その仕組みは、両方の国の水を知らないと、作れないのでは。帝国の土地のことと、この国の理のことと、両方を」


「そのとおりだ」


テオ様は、頷いた。頷いて、まっすぐに私を見た。


「帝国の畑で生まれ育って、井戸と水路の暮らしを知っていて——深海の血を引いて、この国の理の根っこを体で覚えている人間。両方の言葉を話し両方の水を知る人間が、この下書きのまんなかに、ひとりだけ要る」


窓の外で、水の息が、白く立ちのぼっていた。


「——あなただ、リアネ」





水を呼ぶとは、何をすることか。檻の中の授業が、工事のはじまりです。


※noteでも毎朝連載中


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