第7話「工事の、はじまり」①
その人は、冬の稽古の間に、音もなく現れた。
「——久しいな、リアネ」
水盤から顔を上げると、扉のところに、テオ様が立っていた。
氷青の銀の髪。眼鏡の奥の、静かな目。礼の角度まで折り目正しいのに、どこか氷の匂いのする佇まい。お変わりない——と言いかけて、やめた。お変わりは、あった。頬が少し痩せて、眼鏡の奥の目の下に、うすい影がある。夏の終わりにお会いしたときより、もうひとつ、お疲れの色が深い。
「テオ様……! お久しぶりです。あの、お加減は」
「悪くない。座って話しても」
「は、はいっ。どうぞ」
慌てて椅子を勧めると、テオ様はいつもの所作で腰を下ろして、机の上の水盤を一瞥した。
テオ様は眼鏡の縁を、指先で軽く整え直した。昔から変わらない、この方の小さな癖だ。
「稽古は、続けているようだな」
「はい。毎日、三度」
「いい心がけだ」
それだけ言って、テオ様は少し黙った。この方の沈黙は、昔から、次の言葉を選んでいる時間だ。急かさずに待つことを、私は旧図書室で覚えている。
「……済まなかった。長く、顔を出せずにいた」
「いえ! お忙しいのは、分かって——」
「戦のせいで、道が一度、流された」
テオ様は、私の言葉の途中で、静かにそう言う。
道が、流された。
「あなたに約束していた帰り道は、平時の道だ。留学の終わりに合わせて、手続きを整えて、船に乗せる。時間はかかるが、確かな道。……そのつもりで、春から組んでいた」
「……はい」
「開戦で、全部、白紙になった。平時の手続きは、戦時には効力を持たない。船は軍のもので、海は戦場で、あなたは——」
テオ様は、そこで一度、言葉を切った。切って、言い直した。
「あなたの立場は、開戦の朝に、変わってしまった」
開戦事由の、娘。二枚の紙の、まんなかの人。ヴィルフリート様に教えていただいたことを、テオ様の言葉がなぞっていく。この方も、全部、ご存じなのだ。当然だった。この方は、この国の王子様で、ヴィルフリート様の弟君なのだから。
「では……道は、もう」
「なくなってはいない」
テオ様の答えは、早かった。
「流されたから、作り直している。前とは別の道を。……前より、太い道を」
「太い、道……?」
「平時の帰還は、あなたひとりを船に乗せれば済む道だった。いま作っているのは、そうではない。——戦の終わり方の中に、あなたの帰り道を組み込む」
一瞬、意味が、取れなかった。
取れなかった言葉を、頭の中でゆっくり並べ直す。戦の、終わり方の中に。私の、帰り道を。
「……戦を終わらせる約束の中に、ということですか。私を帝国へ帰すことを、その……約束の、条件のようなものに」
「そうだ」
テオ様は、眼鏡の奥から、まっすぐに私を見た。
「あなたは開戦の事由にされた。ならば、終戦の事由にもなれる。始まりに名前を使われた人は、終わりにも名前を使える。……使わせない手は、ない」
息が、止まった。
私の名前で終わらせる道が、どこかにあるかもしれない——あの夜、水盤の前でそう思った。思っただけで、道の形はひとつも見えずにいる。その形を、この方は海のこちら側で、もう作りはじめている。
始まりに名前を使われた人は、終わりにも名前を使える。突き放すような言い方の中に、背中を押す手のひらがある。呼ばれるかどうかは、リアネ次第——遠い昔に旧図書室でそう言われた時と、同じ形。テオ様の言葉は、昔から、そういう形をしている。
「私……私も、探していました」
気がついたら、言葉が出ていた。
「終わらせ方を、探すと決めたんです。檻の名前が分かった夜に、解き方を探すと決めたのと、同じように。でも、何から探せばいいのかぜんぜん分からなくて、本を読むことしか——」
「なら、話が早い」
テオ様は、ほんの少しだけ、目元をゆるめた。
「探し方なら、教えられる。工事は、はじまっている。……手伝う気は、あるか」
手伝う。
その言葉の意味が、胸に落ちるまで、一拍あった。待つ人ではなく。守られる人でもなく。工事を、手伝う人。
「あります」
答える声は、自分でも驚くくらい、まっすぐに出た。
テオ様は頷いて、それから、机の上の水盤へ視線を落とした。
「では、最初の講義だ。——この国の、水の理の話をする。あなたの帰り道は、たぶん、そこを通っている」
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