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第6話「出所のない、紙」④


月の終わりに、前線から公式の報が届いた。


戦線は、海の上で止まっている——報せの中身を一行にすれば、そうなる。緒戦で帝国は北岸の小島をふたつ取り、アクアニアは水路の口をすべて閉じた。それきり、冬の海を挟んで、双方が動けずにいる。


書斎の壁の、日に焼けた四角い跡の上に、アルフォンスは新しい地図を掛けた。


父の外していった地図の、ちょうどその場所に。当主代行が戦況を追わないわけにはいかない。掛けてみて、分かったことがある。


帝国がアクアニアの何倍も大きいことは、掛ける前から知っている。国土も、人口も、兵の数も。数だけ見れば、この戦は始まる前に終わっているはずだった。終わっていないのは、あいだに海があるからだ。


地図の海は、指の二本ぶんの幅しかない。掛けてみて分かったのは、その細さの方だった。指二本ぶんの海を、この冬、誰も渡れずにいる。





帝国は、陸の国だ。


軍は強い。けれどその強い軍を、海の向こうへ運ばなければ、この戦は始まらない。兵を運び、糧を運び——交代の兵を、季節ごとに運び続ける。見慣れない形の帆が港に増えていたのは、つまり、船が足りていないからだ。徴した船と急ごしらえの船で、陸の国が、慣れない海に大軍を浮かべている。


そしてアクアニアは、水の国だ。


水路の口を閉じ、水門を落とし、潮を読んで守りを回す。攻めてくる海そのものが、あの国の城壁になる。治水の理は、そのまま防衛の理だ。帝国が欲しがったものが、帝国の前に立ちはだかっている——皮肉というのは、こういうことを言うのだろう。


数で勝る国が、渡りきれない。


守りに勝る国が、押し返せない。


それが、この冬の海の形だった。そして帝国の南の平野には、十年の日照りがある。長引けば長引くほど、痩せていくのはこちらの腹だ。早く勝たねばならない国が、早く勝てない海の前に立っている。


——だから、急いた声が出る。


このごろ、家々の会合で、その声を聞くようになった。春になったら一気に、という声。水門ごと焼き払え、という声。声の主たちの半分は、出所のない紙の話を、自分の目で確かめた情報のように語った。アクアニアの守りは薄い、と。あの紙に、そう書いてあったから。


出どころを訊くと、皆、少しだけ黙る。黙ってから、口を揃えて言うのだ。——だが、当たっているだろう、と。当たっているかどうかを確かめる手立てを、誰も持たないまま。顔のない紙が、家々の会合で、顔のある声に変わりはじめていた。





夜、父への月次の報告を書いた。


家のこと。武具の手配のこと。家々の会合の空気のこと。そして、出所のない紙のこと。届いた日付、中身の種類、ほかの家の様子——分かっている限りを事実だけ並べて書いた。


最後に、一行だけ、自分の考えを足した。


——紙の狙いは、正しい情報を届けることではなく、戦の熱を冷まさないことにあると愚考します。


書いてから、自分の一行を、もういちど確かめる。


戦が海の上で止まったまま長引けば、人は、だんだん疲れてくる。疲れれば、もうやめよう話し合いで終わらせようという声が、どこかの家から出はじめる。それが、ふつうの戦の冷め方だ。


あの紙は、その「冷める」を、させないために来ている。


勝てそうだと思えば、人はもう少しだけ戦おうとする。恐ろしいと思えば、やめるにやめられなくなる。だからあの紙は、勝てそうな話と恐ろしい話を、交互に配って寄越すのだ。読んだ家が、冷めないように。もうやめようと、誰も言い出せないように。


戦を、続けたがっている誰かがいる。


顔は、まだ見えない。見えないが——あの紙の向こう側に、それは確かに、いる。


書き終えて、書けなかった一行のことを思った。


教室の、袖の内側の紙のこと。報告には、書かなかった。確かめてもいないことで公爵家の名を書けば、それは俺が、出所の怪しい情報の書き手になる。書かない、と決め直す。決め直して——保留の重さだけが、筆の先に残った。





寝る前に、窓の外を見た。


雪はやんで、月が出ている。白い屋根の連なりの向こう、南の空の下のどこかに、渡りきれない海がある。海のさらに向こうに、水の都がある。


胸の奥で、夜のひとつが届いた。


いつもどおりの時刻。いつもどおりの、小さなひとつ。渡りきれない海を、この灯だけが、毎晩あたりまえのように渡ってくる。軍船の百隻が越えられない冬の海を、指先ひとつぶんの明るさが。


俺も、返す。


——また、朝に。


地図の上では、誰も動けない冬だった。動けない冬のあいだも、音を立てないものだけが、両岸で静かに積もり続けている。誰かの配る紙と——二人の交わす灯と。


同じ静けさの中で、まるで違うものが、春を待っていた。





海は指二本ぶんの幅。その細さを、この冬、誰も渡れずにいます。


※noteでも毎朝連載中


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