第6話「出所のない、紙」③(カトリーヌ視点)
カトリーヌ・ド・ルミエールは、今朝も完璧だった。
結い上げたプラチナブロンドの一筋も乱れていない。背筋は伸び、唇には生まれたときから貼りついているような上品な微笑がある。戦の一年目の冬であっても、公爵家の令嬢の完璧に、休みの日はない。崩し方を、彼女は知らないままでいる。
その完璧な袖の内側に、今朝は、一枚の紙が入っていた。
最初の一通は、十日前に届いた。
公爵家の姫のもとへは、日に何通もの文が届く。
茶会の誘い。夜会の礼状。家格の釣り合う家々からの、型どおりの言葉たち。その銀の盆の上に、封蝋も差出人もない白い一通が、素知らぬ顔で混ざっていた。
文面は、三行だった。
——御身の婚約は、いまも宙に浮いたままでいらっしゃる。
——それを留めているものが何か、御家の皆様は、まだご存じない。
——ご息女おひとりだけが、ご存じのはずですのに。
暖炉に、くべようとした。公爵家の娘に無記名の文など、火にくべる以外の扱いがあるものですか。
くべようとした指が、火の手前で、止まった。
——どうして。
どうして、知っていますの。
わたくしが知っていて、わたくししか知らないことを。
あの中庭の光景を。誰にも笑わない人が、あの猫背の平民の隣で口の端をやわらかくしていた、あの光景を。お父様も、お母様も、社交界の誰ひとり知らない。わたくしが、誰にも言えずに、ひとりで抱えてきたことを。
完璧な微笑の下の、一年前に入ったひびが——細い音を立てて、少しだけ伸びる。
三通目は今朝、教室で開いた。
——星の髪飾りを、お手放しにならなくて、ようございました。
——あれをお着けになっている御身は、聡明でいらっしゃる。
——次は、少しだけ、お役に立つことを書きます。
読み終えて、顔を上げなかった。上げないだけの令嬢の躾が、こういう朝に役に立つとは思わなかった。
この髪飾りのことまで、知っている。外せと言われたことも、また着けたことも。書き手の目は、この学院の中にある。あるいは、学院にいた誰かの口が、どこかへ通じている。
——学院に、いた誰か。
ふいに、思い出す声があった。
あの子の水はね、ほんとうは、とても珍しいものなの。
一年前の回廊の柱の陰。アッシュブラウンの髪の、あの穏やかな編入生。中央の記録に残るような特別な血の水よと、景色を眺めるように言った人。わたくしたち、きっと同じものを見ているはずだから——そう言い残して、いつのまにか学院から居なくなった人。
あの方の言葉を、この頃、よく思い出す。
思い出してしまうことが、この紙の狙いなのだとしたら——ずいぶんと、嫌な狙いですこと。
わたくしは、間諜の真似ごとなどいたしません。
お父様にお見せすることも、できる。それが公爵家の娘の、正しい扱いというものだ。家がこの紙の出どころを追い、しかるべき始末をつける。話は、それで終わる。
終わらないのは、わたくしの方だ。
お見せすれば、二行目と三行目の説明を、わたくしがしなければならない。婚約を留めているものが何か。なぜ、わたくしだけが知っているのか。あの中庭の光景を、あの平民の名を——お父様の書斎で、わたくしの口から。
——それは、二度負けることですわ。
一度目は、あの中庭で。家の縁ごと、あの平民に追い抜かれた。二度目を、自分の口で家に差し出すなど、ルミエールの娘のすることではない。この紙は、わたくしの抽斗の二重底で凍らせておく。それが、わたくしの選んだ正しさだ。
正しさの形をした袋小路だと——気づかないふりも、まだ、できている。
放課の鐘が鳴る。
カトリーヌは完璧な所作で立ち上がり、完璧な微笑で取り巻きに応え、廊下へ出た。袖の内側で、紙の角がひとつ、手首に触れている。
窓の外は、雪だった。
指先が、無意識に、結い上げた髪へ伸びる。星型の銀の、冷たい縁。それを外させた人は、いま、あの平民のことだけを考えて冬を過ごしているのだろう。わたくしの袖の中のことなど、何ひとつ知らないまま。
——次は、お役に立つことを書きます。
役になど、立てられるものですか。
そう思う自分の、微笑の下のひびの奥で。終わっていないのなら、という声がひとりでに小さく灯るのを——カトリーヌはまだ、聞こえないふりをしていた。
完璧な令嬢の袖の内側に、彼女だけが知る事実をなぞる紙がひとつ。
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