7話
……なんで?
わかっていた。でも、それを言葉にしたくなかった。
先生は何事もなかったように、また『わたし』へ視線を戻した。その横顔には、最初から変わらない、やさしい笑顔が浮かんでいる。
先生の指が目の前でひらりと揺れた。思わず、その指を目で追った。
「どうして、私の手だけ感じると思う?」
そんなことはどうでもよかった。理由なんていらない。ただ、その手でふれてほしかった。
「答え、教えてあげようか」
先生が、わたしの顔に手を伸ばした。
「あの薬を飲んだとき、私の指があなたの頬にふれてたの、覚えてる? ……左の、ここ」
先生の指が頬にふれた。
そこだけ、わたしの頬が戻ってきた。
覚えてる。あの手の感触も、その前後のことも。
「あの薬はね、脳が『触れてる』って感じる仕組みを切り替えるの。飲んだときに『触れてる』って強く認識していたもの以外は、触っても分からなくなるのよ」
先生の指は、まだわたしの頬にふれていた。
「服って、いつも着てると、いちいち触れてるなんて意識しないでしょう? 下着も、靴も、床もそう。自分の身体だって、普段はいちいち意識しない」
先生の指が頬から離れると、また何もなくなった。
「でも、あのときのみずほちゃんは、私の手をちゃんと覚えてた。だから今も、私の手だけは分かるの」
「……なんで……」
やっと出た声は、ひどくかすれていた。
先生は少しだけ首をかしげる。
「だって、あの頃のみずほちゃん、ほんとうにかわいかったの。私だけを見て、先生、先生って」
その声は、昔と何も変わらなかった。
「だから、壊してみたくなっちゃって」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「壊れていくと、隠してたものが全部出てくるでしょう? みずほちゃんはどうなるのかなって、ちょっと見てみたかっただけ」
先生は楽しそうに笑った。
「――それだけ」
本当に、それだけのことみたいに。
わたしは膝から崩れ落ちた。
あのぬくもりが、うれしかった。先生にふれられるたびに、身体が戻ってきた。
でも、わたしが欲しかったものは、どこにもなかった。
全部、わたしひとりの思い込みだった。
「あのあとも、ずっと見てたのよ。そしたら、ちょっとびっくりしちゃって」
先生は『わたし』を眺めながら続けた。
「他の子はすぐ壊れちゃったの。みずほちゃんだけよ、私を探しに来た子なんて」
まるで褒めているみたいだった。
「もう少し見てようかなって思ってたんだけど……せっかく私を見つけてくれたんだし、ちょっと気が変わっちゃった。だから、ね」
先生の後ろには、『わたし』がいた。
わたしと同じ顔。同じ身体。何も着ていない、もうひとりの『わたし』。
そして先生の手は、その『わたし』をやさしく撫でていた。
「せっかくだから、『みずほちゃん』をちゃんと残しておこうと思って」
先生は『わたし』の腕をゆっくり撫でる。指先が、やわらかく沈んだ。
「『みずほちゃん』は特別なの。肌も、やわらかさも……生きてるみたいでしょ?」
――生きてる。
頭の中で、その言葉が何度も繰り返された。
わたしは立ち上がり、部屋の隅に目を向けた。そこには、くしゃくしゃに丸められた制服が、ゴミの下に半分埋もれていた。
両手で引きずり出す。
よれよれで、汚れていて、もう誰も見向きもしないような布きれ。
でも、これを着れば、先生はきっと分かってくれる。
わたしは着ていたものを全部脱ぎ捨て、制服に袖を通した。震える手で、一つずつボタンを留めていく。
「ねえ、先生。わたし、ちゃんとここにいるよ! ここに……いるから……!」
先生は何も言わない。
「ねえ、見てよ、先生!!」
それ以上、先生の顔を見ることができなかった。
しばらくして、先生の声だけが聞こえた。
「『みずほちゃん』は、もう完成したの」
先生の手は、『わたし』にふれたままだった。
「だからね……古いほうは、もういいかなって」




