3話
帰りの電車で、いつもより揺れを感じないことに気づいた。
いつもなら気になるつり革の感触や、電車の振動。そういうものが全部、少しだけ遠くなったみたいで、不思議だった。
「……あれ?」
つり革を握っているはずなのに、手袋越しに触れているみたいだった。空いた座席に座っても、座っている感覚がほとんどない。
気づけば、電車は自宅の最寄り駅に着いていた。私はそっと自分の頬を撫でてみた。
――何も感じなかった。
家に帰って靴を脱いでも、玄関マットの感触がない。洗面所で蛇口をひねって手を濡らしても、水に触れている実感がなかった。
怖くなって布団に潜り込んだ。でも、柔らかさも温かさも、布団の重さも、着たままの制服が肌に触れている感覚もない。
たまらずスマホを手に取った。画面をタップしても、スワイプしても指先に手応えがない。震える手で先生にメッセージを送る。
『なんか、おかしいです。何も感じなくて……』
すぐに返事が届いた。
『静かになったでしょ。ゆっくり休んで』
「……違う、そうじゃなくて……」
もう一度送った。でも、今度は既読がつかなかった。もう一度送っても、やっぱりつかない。
先生に触れられたときのぬくもりだけは、まだ覚えていた。
ふと手首を見ると、先生にもらったブレスレットが光を受けてかすかに揺れていた。指で触れてみても、何も分からない。
焦って制服を脱ぎ、手当たり次第に肌へ触れさせてみた。毛布、タオル、シャワー、冷たい水。どれも同じだった。頬を叩いても、腕をつねっても、感触も痛みもない。
目には見えているし、身体も動く。なのに、何も感じない。
「こんなの、やだよう、先生……」
既読はつかなかった。その夜、私はひとりで何度も泣いた。
***
次の日、しわくちゃになった制服を着て学校へ行った。いつもの空き教室で一日中先生を待ったけれど、先生は来なかった。
翌朝、起き上がるとパジャマのズボンがべったりと汚れていた。それが何なのか、すぐには理解できなかった。
パジャマも下着も全部脱ぎ捨ててゴミ袋に突っ込み、シャワーを浴びて制服に着替えた。
昨日は来なかった。でも、今日は来るかもしれない。
そう思って学校へ行き、また空き教室で待った。
先生は来なかった。
***
さらに次の朝、ベッドから起きようとして立てなかった。
「……あれ?」
足に力が入らない。何度かやり直して、ようやく床に座り込む。
そこで、ふと思った。
最後に何か食べたの、いつだっけ。
思い出せなかった。水もほとんど飲んでいない。
壁に手をつき、何度もよろけながら台所へ向かった。途中で足がもつれて倒れ、そこからは床を這って冷蔵庫までたどり着く。
何が食べたいわけでもなかった。ただ、何かを口に入れた方がいいと思った。牛乳のパックを手に取り、流しの前でそのまま飲む。味はしなかったし、冷たさもなかった。
それでも飲んだ。
それからは、食べることと水を飲むこと、時間を決めてトイレへ行くことだけは忘れないようにした。食べたいから食べるわけじゃない。喉が渇いたから飲むわけでもない。ただ、そうしないと身体が動かなくなる。
その日も学校へ行き、いつもの空き教室で先生を待った。
先生は来なかった。
もう、来ないんだと思った。
私は学校へ行くのをやめた。でも、制服だけは脱がなかった。これを着ていないと、先生に会えない気がした。
***
次の日から、わたしは先生を探して街を歩くようになった。
先生に会いたい。その一心で、駅の周辺や裏通り、公園、ショッピングモールを歩き続けた。
どれだけ歩いても、疲れたという感覚はなかった。ただ、身体は別だった。足に力が入らなくなって初めて休み、動けるようになると、また先生を探して歩いた。
ときどき何かを買って食べ、水を飲んだ。ただ身体を動かすために口へ入れた。
何日そうしていたのか、だんだん分からなくなった。
制服は汚れ、裾はほつれ、靴下には穴があいた。顔を洗って鏡を見ると、そこには知らない人みたいな顔が映っていた。髪はぼさぼさで、目の下は暗く、唇からは色が抜けている。
最初は、似た髪型の女の人を見つけるたびに追いかけた。振り向けば違う人だと分かる。それなのに離れられず、「先生、知りませんか?」と腕を掴んだ。振り払われても、怒鳴られても、次に似た人を見つければまた追いかけた。
そのうち、先生に似ているかどうかすら関係なくなった。誰かを見つければ声をかけ、知らないと言われても腕を掴んだ。抱きついたこともあった。でも、相手の服も腕も体温も、何ひとつ感じられなかった。
それでも、やめられなかった。
動くたび、手首でブレスレットが小さく揺れた。何日経っても、先生に触れられたときのぬくもりだけは忘れなかった。
わたしの、たったひとりの人。最後に残った、先生のぬくもり。
いつからか、近所の人がわたしを見てひそひそ話すようになった。
「……あれ、佐藤さんちの娘じゃない?」
「服、ボロボロ……」
「最近、学校も行ってないみたいよ」
「ちょっと、なんか……臭わない?」
通りすがりの人が距離を取る。コンビニではレジの人がわたしに触れないように手を引き、公園では近づいただけで子どもが離れていった。
それでも、先生を探した。
***
その日も、先生を探して歩いていた。
駅前の裏路地。もう何度通ったのかも分からない道を、ボロボロの制服と黒ずんだスニーカーで歩く。
雑居ビルの横を通り過ぎようとしたとき、視界の端で見覚えのある髪が揺れた。
足が止まった。
次の瞬間には、駆け出していた。
「……あの、待って……!」
その人が振り向く。
間違えるはずがなかった。
先生だった。
「あら、お久しぶり。元気だった?」




