12話
最初のうちは、まだ「私」がいた。
先生と呼ばれても返事はしなかった。する気もなかった。でも、フードの女は気にしなかった。
「あなたは、まだ先生じゃないもん」
そう言って、頬をやさしく撫でてくる。その手を、いつの間にか拒めなくなっていた。
やさしい手つきだった。でも、やさしくなんかなかった。
何度も、何度も声をかけられた。呼ばれるのは私の名前じゃない。
先生。先生。先生。
毎日そう呼ばれているうちに、自分の名前を最後に呼ばれたのがいつだったのか、思い出せなくなっていった。
手を握られる。服を選ばれる。身体を洗われる。私が何かを決めるより先に、女が全部やってしまう。
「おなかすいてない? ……分かってないだけだよ。先生はね、ちゃんと食べなきゃだめなの」
「大丈夫。わたしが教えてあげる。ほら、口あけて」
「トイレ? うん、だいじょうぶ。失敗しても、ちゃんと拭いてあげるから」
嫌だった。
……嫌だったはずなのに、何が嫌なのか、少しずつ分からなくなっていった。
身体は動く。声も出せる。それなのに、食べることも、着替えることも、トイレに行くことも、女に言われるままになっていた。
何かするたびに、女の手がふれるからだ。頬を撫でられる。手を握られる。身体を支えられる。そのときだけ、自分の身体が分かる。
だから、拒めなかった。
「ねぇ、ちがうの。あなたは先生じゃない」
そう言ったかと思えば、女は私の手を握って笑う。
「だから、言うとおりにして。ちゃんと、わたしの先生になって」
「わたしは、あなたが必要なの。だから、壊さないで……お願い」
何を言っているのか分からない。それでも、女にふれられている間だけは、自分の身体を感じられた。いつの間にか、女が手を離す瞬間が怖くなっていた。
ここから逃げたい。家に帰りたい。この女が怖い。
そう思っていたはずなのに、手を握られると、それでいいような気がしてしまう。
そんな日が、何日続いたのか分からない。
*
ある夜、女が小さなケースを取り出した。中には、もうひとつ白い錠剤が残っていた。
「もうすこしだと思うんだ……ねぇ、これ飲めば、あなたはもっとちゃんと先生になると思うの」
嫌だ。これは飲みたくない。
どうして嫌なのか、もううまく考えられなかった。それでも錠剤を見た瞬間、身体が勝手に後ずさっていた。
「ほら、ね? 怖くないから。いままでより、ずっと楽になるよ」
私は首を横に振った。
女が近づいてくる。逃げようとした。でも、すぐに腕をつかまれた。
「いや……!」
顎を押さえられ、無理やり口を開かされる。錠剤を押し込まれ、そのまま口を塞がれた。
「んっ……! んんっ……!」
吐き出そうともがいた。それでも、最後には喉を落ちていった。
「……っ、げほっ……!」
もう口の中には何もなかった。女が安心したように笑う。
「大丈夫。これで、もうすこしだから」
しばらくすると、ただでさえ遠かった身体が、もっと遠くなっていった。
手がある。足がある。見れば分かる。でも、それが本当に私のものなのか分からない。ここにいるのが私なのか、それさえ曖昧になっていく。
怖い。
……怖い? 何が?
さっきまで、何を嫌がっていたんだっけ。
「ね、大丈夫。だんだんちゃんと感じられるようになるから……」
女の声が聞こえる。
「ほら、あなたの手は、先生じゃないけど――なれるはずなの。だから、もうちょっとだけ……頑張ってみようね?」
私はうなずいた。うなずいてしまった。
先生になればいい。
そうすれば――何だっけ。
何かが違う。何か、大事なものがなくなっている。でも、それが何なのか分からない。
ぼんやりと部屋を見回した。
机の上に、ナタが置いてあった。
それを見た瞬間、身体が動いた。
手を伸ばし、柄をつかむ。重さも冷たさも感じない。それでも、握っていることは目で分かった。
私はナタを持って立ち上がった。
「……だめだよ、それは」
女の声がする。
「危ないことしないで。あなたは、わたしの先生になるんだから」
先生。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがひっかかった。
何が違うのかは分からない。それでも、違う。
「……ちがう……」
「え?」
「私は……せんせいなんかじゃない……」
かすれた声だった。それでも、自分の声だった。
女が目を見開く。私はナタを振り上げた。
「待って」
女が手を伸ばしてくる。
あの手にふれられれば、また感じられる。自分の身体が戻ってくる。
一瞬、振り上げた腕が止まった。
「大丈夫だよ」
女が笑う。
「ほら、先生。こっちに――」
違う。
私はナタを振った。
何かが裂ける音がした。
女がよろめき、一歩下がる。その拍子にフードが落ちた。
乱雑に切られた髪。私より少し年上に見える、どこにでもいそうな女の顔。肩から血が流れていた。
初めて、ちゃんと顔を見た気がした。それでも、誰なのかは分からない。名前も知らない。
女は傷口を押さえながら、寂しそうに笑った。
「……ねえ、なんで……? せっかく、ここまで作ってあげたのに……」
「……ちがう……」
女が手を伸ばしてくる。
あの手が近づいてくる。ふれられたら、また分かる。手も、頬も、自分の身体も。
それでも。
「ちがう……!」
ふれられる前に、もう一度ナタを振った。
女が倒れる。それでも、こちらへ手を伸ばしてくる。
私はもう一度ナタを振った。
それから何度振ったのかは分からない。
気づいたときには、女は動かなくなっていた。伸ばされていた手も、床に落ちている。
私はしばらく、その手を見ていた。
もう、ふれてはこない。もう、自分の身体を感じることもできない。
それでも、近づかなかった。
ナタを放り出し、小屋を飛び出した。
*
なぜ走っているのかも分からなかった。ただ、ここから離れたかった。
感覚のない足を動かして、暗い山道を駆け下りる。転びそうになっても、木の枝に服を引っかけても止まらなかった。
どれくらい走ったのか分からない。
やがて、遠くに光が見えた。ガードレールの向こうを走る車のライトだった。人の声も聞こえる。
私はそちらへ向かった。
ガードレールを越えようとして、顔から地面に落ちた。
痛みはなかった。
誰かがこちらに気づいた。懐中電灯の光が向けられ、複数の足音が近づいてくる。
「どうしましたか!? 大丈夫ですか!?」
誰かが毛布をかけてくれた。
何も感じなかった。
別の誰かが無線で何かを話している。
「名前、分かりますか?」
名前。
私の名前。
答えようとした。
でも――。
何も、分からなかった。




