11話
それから数時間もしないうちだった。
床に敷かれたマットに、じわりと染みが広がっていた。何も感じなかった。いつからそうなっていたのかも分からない。
それを見て、ようやく気づいた。
「……や、いやあああああ! なんで! なんでぇぇぇ!」
ありえない。こんなこと、ありえない。
言われていたのに。時間を見てトイレに行かないと、気づかないまま漏らしてしまうって。
でも、分かるわけがなかった。行きたいとも思わなかった。何も感じなかった。自分の身体に何が起きているのかさえ、分からなかった。
「うそ……やだ、やだ……!」
涙があふれた。
しばらくして、ギィ……とドアが開いた。フードの女は私の姿を見ると、少しも驚かずに近づいてきた。
「あ……間に合わなかったんだ」
責めるような声ではなかった。
「最初はそうなるよ。わたしもそうだったから。大丈夫。ね、着替えよう?」
大丈夫なわけがない。
スカートも下着も濡れている。それなのに、濡れていることすら分からない。
女はしばらく私を見つめ、それからタオルを差し出した。
「服、脱げる? 自分でできそう?」
私は何も答えず、タオルを受け取った。手伝われるのは嫌だった。
制服に手をかける。指先を目で追いながら、ひとつずつ脱いでいった。
濡れた下着も脱いで、タオルで身体を拭く。太もも、お腹、腕。ゆっくり、何度も確かめるように。
もしかしたら、どこかに少しくらい感覚が残っているかもしれない。
そんな期待は、すぐになくなった。
肌の温度も、タオルの濡れも、自分の指が触れていることさえ分からない。目の前にあるから、自分の身体だと分かるだけだった。
まるで、自分ではない誰かの身体を手入れしているみたいだった。
それでも最後まで拭いて、着替えた。視界はずっと、涙で滲んでいた。
*
その夜、私はシーツの隅でひとり泣いた。
何も感じないまま、時間ばかりが過ぎていく。どうしたらいいのかも、何をすればいいのかも分からなかった。
それから二日、三日と過ぎた。
私はほとんど食べられなかった。水も、言われなければ飲まなかった。
お腹がすかない。喉も渇かない。トイレに行きたいとも思わない。身体は何も教えてくれない。
だから、時間を見て食べる。水を飲む。トイレに行く。そうするしかなかった。
その日、フードの女が近づいてきた。
私は反射的に身体を縮めた。怖い。何をされるのか分からない。
女が手を伸ばし、私の肩に置いた。
「……っ」
分かった。
手のひらも、五本の指も、肩を包むように置かれたその形も、全部分かる。
私は思わず女の手を見た。
数日前まで、こんなの当たり前だった。誰かに触られれば分かる。それだけのことだったのに。
女は何も知らないように、やさしく笑っていた。
「少しは慣れた?」
返事ができなかった。
手を離されたくない。
そう思ってしまった自分が、怖かった。
この女が怖い。ここから逃げたい。
なのに、この手だけは離してほしくない。
女の手が肩から離れた。
「あ……」
感覚が消えた。
肩にあったはずの手の感触が、一瞬でなくなった。
「どうしたの?」
女が不思議そうに首を傾げる。
「……なんでも、ない……」
言えるわけがなかった。もう一度、あの手にふれてほしいなんて。
女は私の前にしゃがむと、今度は私の手を取った。
「……!」
戻ってきた。
手のひらも、指も分かる。女の指がどこに触れているのかも分かる。
自分の手が、ちゃんとここにある。
離してほしくなかった。
「……まだ、だめなんだよね」
女は私の手を見つめていた。
「こんなにちゃんと手なのに」
指先が、私の手のひらをゆっくりとなぞる。その指だけは、はっきり感じられた。
「いいなぁ……わたしも、感じたいな」
意味が分からない。
「でもね、大丈夫。あなたの手、まだ先生じゃないけど、きっとなれるの」
先生。また、その言葉。
女が私の手を両手で包んだ。
「先生になったらね、わたしも戻れるんだよ」
――戻れる。
その言葉に、胸が跳ねた。
私も戻れるの?
顔を上げる。でも、女は私を見ていなかった。私の手だけを見て、うれしそうに笑っている。
「だから、ちゃんと先生になってね?」
何を言っているのか分からない。先生が誰なのかも、どうして私が先生にならなきゃいけないのかも、何ひとつ分からない。
でも、女の手はあたたかかった。その温度が分かる。包まれている自分の手を、ちゃんと感じられる。
私はゆっくりとうなずいた。
先生になれば、女は戻れる。
だったら、私は?
私も戻れるの?
分からない。
それでも、この手を離されたくなかった。
また、ふれてほしかった。




