9話
最初は、ただの違和感だった。
ここ数日、電車に乗ると、いつも同じ人影が視界の端にいる。フードを深くかぶっていて、顔は見えない。決まって少し離れたところに立っている。
ジャケットの裾からスカートがのぞいていたから、女の人なんだと思っていた。
たまたま同じ電車に乗っているだけ。最初はそう思っていた。
でも、次の日もいた。その次の日も。
こっちを見ているわけじゃない。近づいてくるわけでもない。ただ、いる。
それだけなのに、どうしても気になった。
そして今日。
電車に乗ってから、何度も車内を見回した。ドアのそばにもいない。窓際にも、吊り革の列の向こうにもいない。
……いない。
ほっとした。これまでだって、たまたまだったんだ。
そう思ったのに、胸の奥に引っかかるものが残った。
いつもの駅で降りる。昨日までは、あの女も同じホームに降りてきていた。今日は階段にも、改札にもいない。
私は足早に改札を抜け、バス乗り場へ向かった。
知っている顔ばかりの車内。いつもの景色。いつもの道。
大丈夫。もう大丈夫。
何度もそう言い聞かせた。
いつもの停留所で降りる。今日ここで降りたのは、私ひとりだった。
冷たい空気を吸い込んで、ようやく肩の力が抜けた。
よかった。やっぱり、考えすぎだったんだ。
そう思いながら、自転車置き場へ向かって――
気がつけば、薄暗い小屋の床に倒れていた。
「……え……?」
頭が痛い。ずきずきする。視界が滲んで、うまく焦点が合わない。
起き上がろうと床に手をついた。でも、腕に力が入らなかった。
「……なに……ここ……」
そのとき、目の前で何かが動いた。
人がしゃがんでいる。
フードを深くかぶった、小柄な女。
見覚えがあった。ここ数日、ずっと電車にいた――。
「目、覚めたんだ」
フードの奥で、口元がにっこりと笑った。
「よかった……ね、大丈夫だよ。怖くないからね」
「ひぅっ……!」
叫ぼうとした。でも、喉がつかえて声にならない。
逃げなきゃ。
そう思うのに、身体が動かない。口が渇いている。手が震えている。何が起きたのか、全然分からない。
「ね、ちょっとだけお願いがあるの」
女がポケットから何かを取り出した。
小さな、白い錠剤。
「これ……飲んでくれる?」
「……え……?」
「すぐ楽になるよ。特別な薬だから」
私は首を振った。
いやだ。絶対にいやだ。
「そしたら、その手が先生の手になるんだよ」
……なに、それ。
意味が分からない。
女が錠剤を持ったまま、近づいてくる。
逃げなきゃ。でも、動けない。
錠剤が口元まで来た。反射的に顔をそむける。
「あ、だめだよ」
頬をつかまれた。
「ちゃんと飲まないと」
細くて、白くて、きれいな手。
なのに――痛い。
頬が潰れそうなほど強くつかまれている。
「っ……や……!」
振りほどこうとした。びくともしない。
それなのに、女はにこにこと笑っている。
「大丈夫、大丈夫。すぐ楽になるから」
いや。いやだ。
口を閉じる。でも、女の指が唇の間に押し込まれた。
「んっ……!」
強い。痛い。
顎を押さえられ、無理やり口を開かされる。白い錠剤が舌の上に落ちた。
「んんっ……!」
吐き出そうとした。すぐに口を押さえられる。
「だめ。飲んで」
むせた。
その拍子に、錠剤が喉を落ちていった。
飲んじゃった。
「……飲めたね」
女の手が離れた。
逃げなきゃ。
身体をよじった瞬間、頭の奥に激痛が走った。
「っ……!」
痛い。それでも、ここにいるよりはいい。
逃げなきゃ。
ここは、おかしい。
こいつ、おかしい。
絶対に――。
「あっ、だめ! 動かないで……!」
肩をつかまれた。
「ほら、落ち着いて。だいじょうぶだから……!」
次の瞬間、身体が床へ叩き戻された。
「ぐっ……!」
息が詰まる。
女が慌てたように顔をのぞき込んできた。
「……あ、ごめんね。痛かった?」
そう言って、ようやく肩から手を離す。
怖い。
細い腕なのに、びくともしなかった。
なんで、こんなに力が強いの。
逃げなきゃ。
床に手をつく。ドアが見えた。
あそこまで行けば――。
腕だけで身体を引きずる。少しだけ進んだ。もう少し。
身体を引きずるたびに、頭の奥がずきずきと痛んだ。視界が揺れる。ドアが遠い。
あと少しなのに。
腕から力が抜け、身体が床へ落ちる。
「……まだ、頭痛い?」
女の声がした。
「じゃあ、もうちょっと寝てたほうがいいよ」
やさしい声だった。
それが、たまらなく怖かった。
私は床に倒れたまま、必死に目を開けていた。頭が痛い。視界が揺れる。意識が遠のいていく。
いやだ。寝ちゃだめ。
ここで寝たら――。
女が近づいてきた。
頬に手がふれる。
さっきまであれほど強かった指が、今度は妙にやさしい。
ぞくりと背筋が冷えた。
――違う。
これは、優しさなんかじゃない。
口の中には、まだ薬の苦味が残っている。身体に力が入らない。
「……たすけて」




