閑話3
いつからか、目を閉じると、自分がどこにいるのか分からなくなった。
手を握ってみても、握っている感じがしない。腕を抱いても、そこに腕があるのか分からない。頬をつねっても、髪を引いても、何もない。
目を開ければ、手も、腕も、脚もある。
でも、目を閉じるとなくなる。
眠るときは、もっと分からなくなる。
手も、脚も、顔もない。
何もない。
ときどき、目を開けて確かめた。
手がある。脚もある。
ちゃんと、わたしはいる。
目を閉じると、また分からなくなる。
先生にふれてもらっていたときは、違った。
手を握ってもらえば、手があった。頭を撫でてもらえば、頭があった。背中に手を添えてもらえば、そこまでがわたしだった。
今は、先生の手がない。
どこまでがわたしなのか、分からない。
わたしがいるのかどうかさえ、ときどき分からなくなる。
先生の手がないと、わたしが分からない。
*
駅前のショーウィンドウに、ふと、わたしが映った。
ぼさぼさの髪。汚れた制服。うつろな目。その上から羽織った、ボロボロのジャケット。
……だれ、これ。
しばらく見てから、それが自分だと分かった。
こんなの、わたしじゃない。
先生が見ていた、わたしじゃない。
ちゃんとしなきゃ。
あのころの、わたしに戻らなきゃ。
髪を切った。服を替えた。ちゃんと食べるようにした。
少しずつ、外側だけを元に戻していく。
鏡に映る姿が、少しずつ前のわたしに近づいていった。
これでいい。
これなら、あのころと同じだ。
*
また違った。
「……ちがう……これも、ちがう……」
わたしはちゃんと、わたしに戻ったのに。あのころと同じになったのに。
指を曲げてみる。爪の形をなぞってみる。
何も感じない。
そこに手があっても、わたしの身体は戻ってこない。
足元には、またひとつの「違った手」が転がっていた。
しばらく、それを見下ろしていた。
そして、ふと。
何かがつながった。
……あれ?
どうして、先生の手だけは感じられたんだっけ。
薬を飲んだ。
先生がふれた。
それから、先生の手だけが分かるようになった。
だったら、同じことをすればいい。
あのときと同じにする。
薬を飲ませる。
その手で、わたしにふれてもらう。
そうすれば、その手は先生の手になる。
先生の手になれば、わたしにも分かる。
見つからないなら――
つくれば|、いい。
先生の手を。
そうだ。
先生の手がだめになったのは、手だけにしてしまったから。
だったら、今度は切らなければいい。
手だけ持っていかなければいい。
つながったままなら、ずっと温かい。ちゃんと動く。ずっと、わたしにふれてもらえる。
その人が誰なのかなんて、どうでもいい。
欲しいのは、その手だけ。
先生の手になってくれる手だけ。
そうすれば、いつでもわたしは戻ってこられる。
*
その子を見つけたのは、地方の小さな駅だった。
人混みの中でも、その手だけはすぐに目に留まった。
細くて、指が長くて、少しだけ先生に似ている。
そんな手だった。
だから、あとを追った。
一日だけじゃない。次の日も、その次の日も。
同じ電車に乗り、少し離れたところから見ていた。
その子はいつも同じ駅で降り、バスに乗った。
何日か追いかけて、どこで降りるのかも分かった。バスを降りたあと、自転車で帰ることも。その途中に、人気のない山あいの駐輪場があることも。
だから、その日は先に待っていた。
その子が自転車に手を伸ばしたところで、後ろから近づいた。
壊さないように。
逃がさないように。
軽く殴ったつもりだった。
その子は自転車ごと倒れ、地面に転がった。
動かなくなった。
少し待ってから、しゃがみ込んで顔を見る。
息はしている。
壊れてない。
*
古びた山小屋には、ほこりと湿気のにおいがこもっていた。
ポケットの中には、小さな薬のケース。
二錠、そのまま残っている。
わたしを作った、はじまりの薬。
先生の手だけを、わたしに残してくれた薬。
ケースを開け、一錠を指でつまむ。
「ねえ」
声をかけると、その子が怯えた目でわたしを見た。
頭には包帯を巻いてある。にじんだ血は、まだ乾いていなかった。
……大丈夫。
ちゃんと生きてる。
「ちょっとだけ、お願いがあるの」
錠剤を手のひらにのせて見せる。
「これ、飲んでくれる?」
その子の顔がこわばった。
「すぐ楽になるよ。特別な薬だから」
わたしは笑った。
「そしたら、その手が先生の手になるんだよ」
これでいい。
欲しいのは、この子じゃない。
この手だけ。
切らないで、このままにしておけばいい。
そうすれば、ずっと温かい。ずっと、わたしにふれてくれる。
もう探さなくていい。
もう失くさなくていい。
だから――
……せんせいの手になってよ。




