第9話 断罪の席
「本審問は二件の案件を扱う。第一に、公爵令嬢アリシア・ヴァレリウスに対する補佐官罷免令の正当性の検証。第二に、第一王太子ルキウス・レイ・クレスティアおよびセレスティアに対する冤罪扇動・偽聖女詐称の告発である」
大審問廳の天井は高い。
王宮の中でも最も古い建物で、壁の石は他より黒ずんでいる。窓が少なく、蝋燭が多い。夏でも空気がひんやりしている。
入廷した時、最初に目に入ったのは天井でも壁でもなく、蝋燭の炎だった。何十本も立てられた蝋燭が一斉に揺れた。扉を開けた時の風だ。書記官のインクの匂いが鼻についた。甘い香りだ。王宮の書記官は上等なインクを使う。補佐官室のインクとは違う匂いだった。
廷内には人が詰めていた。貴族、官僚、書記官。傍聴席の端まで埋まっている。私が入った瞬間、ざわめきが走って、すぐに静まった。
二ヶ月ぶりの王都だ。二ヶ月ぶりの正装だ。辺境の村から持ってきた荷物に正装は入っていなかったが、ナハト殿が手配してくれた。生地は上等だが仕立てが少し合わない。肩が窮屈で、袖が二分ほど長い。でも贅沢は言えない。
正面の高座に、大審問官が三名。その左手に、国王陛下。右手に、竜王陛下。
竜王陛下と目が合った。
琥珀色の目が、一瞬だけ柔らかくなった気がした。気のせいかもしれない。あの方の表情は、いつも読めない。読めないのに、七年間ずっと読もうとしていた。
国王陛下は——苦い顔をしていた。苦い、としか言いようのない表情だ。怒りでも悲しみでもなく、何かを噛み締めているような顔。息子を裁く場に座る父の顔だ。
被告席に、ルキウス殿下とセレスティア様がいた。
殿下は余裕のある顔を作っていた。作っていた、と分かるのは、目が泳いでいたからだ。視線が落ち着かない。傍聴席を見て、審問官を見て、竜王を見て、またそらす。
セレスティア様の手が震えていた。あの集会で泣いた時とは違う震え方だ。演技の涙ではない。本物の恐怖だ。
私は証人席に着いた。椅子が冷たかった。
第一案件。罷免令の検証。
竜王陛下が証人として立った。
立ち上がった陛下の姿に、廷内がまた静まった。竜王が大審問廳で証言するのは、この国の歴史上でも数えるほどしかない。
「竜王補佐官の人事権は竜王にある。これは共存条約の発効時から定められた制度であり、王族を含む人間側の権限の範囲外にある」
陛下の声は低く、淡々としていた。感情を交えない、事実の陳述。
「王太子が独断で発令した罷免令は越権行為であり、法的に無効である」
大審問官の一人が質問した。
「罪状は『竜王を誑かし、不当に政務に介入した』とありますが、竜王陛下のご見解は」
「誑かされた事実はない。介入された事実もない。アリシア・ヴァレリウスは七年間、一度の不正もなく職務を全うした。私が保証する」
短い証言だった。だが、反論の余地がなかった。
人事権の所在は条約に明記されている。越権行為の事実は令状そのものが証拠だ。
ルキウス殿下の弁護人が形式的に異議を唱えたが、法的根拠を示せなかった。大審問官が合議に入った。長くはかからなかった。越権行為の事実は条約の文面と照合すれば明白で、異論の入る余地がなかった。
「罷免令を無効と認定し、撤回する。アリシア・ヴァレリウスの補佐官としての七年間の功績は、公的記録として正式に認定される」
傍聴席がざわめいた。
私は動かなかった。嬉しいのか安堵なのか、自分でも分からなかった。ただ、膝の上に置いた手が冷たいことだけ分かった。
第二案件。冤罪扇動および偽聖女詐称の告発。
ここからが本題だった。
証拠が、順に提出された。
まず、私の政務日誌。七年間の物資記録の中から、高純度魔石の不審な購入履歴を抽出したもの。用途欄の「聖女の儀式用消耗品」が虚偽であることを、竜族の魔法専門家が証言した。正規の聖力浄化に高純度魔石は不要だ、と。
次に、魔道具「模倣の鏡」の現物。押収品だ。小さな鏡が、書記官の手で廷内に示された。銀の枠に術式が刻まれている。見た目は美しいが、禁制品だ。
闇商人の証言が読み上げられた。発注者は王太子殿下の側近。セレスティア本人が受け取りに来たこともあった、と。
セレスティア様の顔から血の気が引いていくのが見えた。白い顔がさらに白くなって、唇だけが乾いた色になっていた。
竜王陛下が再び立った。
今度の証言は、さっきとは少し違った。
「この女性は七年間、この国を支えた」
陛下が私を見た。
「外交書簡の翻訳、領地紛争の調停案、税制改定の試算、竜脈管理弁の操作。その全てを、彼女が一人で担っていた。それを知らなかったのは——」
一拍、間が空いた。
「私の罪だ」
廷内が静まった。蝋燭の炎が揺れる音が聞こえるほどの静寂だった。
竜王が、公の場で「私の罪」と言った。
千年を生きる竜が、自分の過ちを認めた。
奥歯に力が入った。唇の裏側が乾いていた。こんなところで感情を崩すわけにはいかない。証人として、最後まで座っていなければ。
ルキウス殿下の弁護人が反論を試みた。
「魔道具の購入は側近の独断であり、殿下は関与していない」
闇商人の追加証言が読み上げられた。発注書にルキウス殿下の印章が押されている、と。
弁護人が黙った。
殿下の口元が引きつった。笑おうとして、失敗したように見えた。
それ以上は、私の席からは読み取れなかった。
だが、後から聞いた話がある。ナハト殿が、審問後に教えてくれた。
殿下は被告席で、ずっと手を組んでいたらしい。指が白くなるほど強く。
何を考えていたかは、誰にも分からない。ただ、判決の直前に殿下が一度だけ竜王陛下を見た時、その目に浮かんでいたのは怒りではなく——困惑だったという。
なぜこうなったのか、分からないという顔だったと。
たかが事務仕事だと思っていた。あの地味な補佐官を一人消しただけだと思っていた。竜王に認められたかっただけだった。竜王が人間の女を信頼していることが許せなかっただけだった。
それの何が悪い。
それだけのことで、なぜ全てが崩れる。
なぜ父の目が、あんなに冷たい。あの目を向けられたことは、一度もなかったのに。
判決が読み上げられた。
「第一王太子ルキウス・レイ・クレスティアに対し、大審問廳は王位継承不適格の勧告を発する」
国王陛下が立ち上がった。
廷内の全員が、国王を見た。
国王の顔は、開廷時と変わらず苦かった。だが、目は据わっていた。
「勧告を受諾する。第一王太子ルキウスの王位継承権を剥奪し、辺境への蟄居を命ずる」
声が震えなかったのは、おそらく何度も練習したからだ。息子の処分を言い渡す台詞を、一人で何度も口に出して練習した。そんな想像が頭に浮かんで、消えなかった。
「セレスティアに対し、聖女の称号を剥奪し、国外追放とする」
セレスティア様が膝から崩れた。弁護人が支えた。泣いていた。今度の涙は、きれいな筋を通らなかった。頬も鼻も目も、全部ぐちゃぐちゃに歪んでいた。
ルキウス殿下は立ったままだった。何も言わなかった。
最後に、父が立った。
「ヴァレリウス公爵家当主として、爵位の一代返上を申し出ます」
廷内がざわついた。父は続けた。
「娘への贖罪と、次の世代のやり直しのためです。後継者への継承権は維持をお願いいたします」
国王が頷いた。「承認する」と。
父と目が合った。
父は笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、まっすぐにこちらを見ていた。あの集会の日とは違う目だった。あの時は目を逸らした。今日は逸らさなかった。
それだけで、十分だった。
十分かどうかは、まだ分からない。でも、今はそう思うことにした。
控室は狭かった。
審問が終わって、傍聴人が廷内から出ていく喧騒が壁越しに聞こえる。書記官が出入りして、書類を運んでいる。控室には椅子が二つと、小さな卓。水差しが一つ。
竜王陛下が入ってきた。
扉を閉めた。二人きりになった。
陛下は椅子に座らなかった。立ったまま、私を見ていた。
何を言うのだろう、と思った。お疲れ様だろうか。よく頑張っただろうか。補佐官に戻れ、だろうか。
「もう二度と、お前を一人にしない」
違った。
全部違った。
陛下が私の手を取った。大きな手だった。指が長くて、骨ばっていて、少し冷たい。竜族の体温は人間より低い。その冷たさを、七年間知っていた。書類を渡す時に指が触れて、毎回少しだけ驚いた。こんなに冷たいのか、と。
今は驚かなかった。
冷たい手が、私の手を包んでいた。
何か言わなければ。返事をしなければ。でも、何を言えばいいのか分からなかった。
「陛下、私——」
言いかけて、止まった。
言いたいことがありすぎて、一つも出てこなかった。七年分の手紙に書いたこと。書かなかったこと。届けなかった理由。届けるべきだった後悔。今朝、窓辺に並んだ三枚の鱗を見た時の気持ち。全部が喉元まで来て、詰まった。
「……今日は、ここまでにさせてください」
情けない言葉だった。大事な場面で、いつもこうだ。肝心なことが言えない。
陛下の手が、ほんの少しだけ力を込めた。握り返した、のではないと思う。握り返すほど感情的な動作を、この方はしない。でも、指の力が変わったのは確かだった。
「待つ」
一言だった。
それだけ言って、陛下は手を離した。
控室を出ていく背中を見送った。銀色の髪が、蝋燭の光を受けて揺れた。
一人になった控室で、水差しの水を飲んだ。ぬるかった。
手のひらに、陛下の手の冷たさが残っていた。すぐ消えるはずの温度が、なかなか消えなかった。
窓辺の鱗のことを考えた。三枚。毎朝一枚ずつ。陛下が自分の体から剥がして、私の窓に置いていった。
あれは、何だったのだろう。
まだ聞いていない。聞けなかった。
でも、聞かなければならない。次に会った時に。次があるなら。
控室の扉の向こうで、誰かが通り過ぎる靴音がした。審問は終わった。冤罪は晴れた。名誉は戻った。
なのに、まだ何かが終わっていない気がした。
何かが、始まろうとしている気がした。




