第8話 鱗と手紙
朝、窓を開けると、銀色の鱗が一枚、窓辺に置いてあった。
最初は光のいたずらかと思った。
朝日が差し込む角度で、窓枠の木が光って見えることがある。でも、手を伸ばしたら硬かった。冷たくて、滑らかで、指先に吸いつくような感触。
鱗だった。
手のひらに載せた。親指の爪ほどの大きさ。銀色だが、光の加減で虹色の縁が浮かぶ。薄いのに、折ろうとしてもびくともしない。
竜の鱗。
窓の外を見た。丘の上に、影がある。竜の姿だ。村の外の丘に、昨日からずっと座っている。夜通し動かなかった。私が拒絶した翌日から、あの丘にいる。
帰らない、と言ったのは本当だったらしい。
鱗を窓辺に置いた。指が離れるのが少し惜しかった。
翌朝も、鱗があった。
同じ場所。窓辺の、昨日の鱗の隣。少しだけ大きい。
三日目の朝も。
三枚の鱗が、窓辺に並んでいる。朝日を受けて、小さな虹を落としていた。
「先生、それなに?」
リーナが朝一番に来た時、窓辺を覗き込んだ。
「きらきらしてる。きれい」
「竜の鱗よ」
「あの丘の竜の?」
「たぶん」
「なんで窓に置いてあるの?」
答えられなかった。
五日前、子供たちに竜族の文化を教えた。鱗を渡す行為は求婚を意味する、と。一度渡した場所の鱗は二度と生えない、と。
でも、あれは竜族同士の話だ。竜が人間に鱗を渡した話は聞いたことがない。ナハト殿に教わった時も、「竜族間の習慣」と言っていた。
これは違う。これは、たぶん——何だろう。感謝か。謝罪の印か。七年間の労いか。
求婚であるはずがない。
「先生、大事にするの?」
「……ええ。大事にしましょうか」
鱗を一枚手に取って、光に透かした。薄い銀色の向こうに、朝の空が見えた。
その日の午後、手紙が届いた。
届けたのは村の郵便屋だ。辺境の村にも月に二度、郵便が来る。王都からの手紙は珍しいらしく、郵便屋は首を傾げながら渡してきた。
「先生宛てだよ。王都から。立派な封蝋だねえ」
封蝋を見て、息が詰まった。
ヴァレリウス家の紋章だ。獅子と百合。見慣れた紋章。見慣れた封蝋。父の書斎にあった、あの重い印章で押した蝋。
リーナを外に出してから、封を切った。指先が震えて、封蝋がうまく割れなかった。小刀で切った。
『アリシア。
私は愚かな父だった。
ルキウスに言われた。お前を庇えば公爵家ごと潰す、と。あの集会の三日前のことだ。書斎に呼び出されて、告げられた。弟のこと、使用人たちのこと、領地の民のこと。全部を天秤にかけて、私はお前を切った。
脅されたからだ。それは事実だ。
だが、脅されただけではない。
抗うこともできた。竜王陛下に直接訴えることもできた。だが私は、家名が傷つくことを恐れた。公爵家の名前に泥がつくことを。娘の命より家名を選んだのだ。脅迫を言い訳にして、私は自分の保身を選んだ。
お前を守れなかったことを、一生悔いる。
竜王陛下が公開審問を要請された。お前の罷免令の撤回と、偽聖女の告発を同時に行う場を。国王陛下も承諾された。
出てきてはくれないだろうか。お前の口から、真実を語ってほしい。
許してくれとは言わない。ただ、これ以上お前に嘘をつきたくないのだ。
父より』
読み終えて、手紙を裏返しに置いた。
文面を上にしておくと、目が勝手に読み返してしまいそうだった。
立ち上がって、水を飲んだ。コップの水が揺れている。手のせいだ。
座り直して、天井を見た。木目が横に走っている。王宮の天井は石だった。高くて冷たい天井。あの下で、七年間働いた。
父が脅されていたのは知らなかった。
あの集会で、父が何も言わなかった理由。唇が動いたように見えたのは、何か言おうとしていたのかもしれない。言えなかったのだ。言えば、家が潰される。
でも。
でも、言ってほしかった。
たった一言でいい。「娘は悪くない」と。それだけでよかった。それだけで、私は——。
いや、どうにもならなかっただろう。ルキウス殿下が罷免令を出した以上、父が何を言っても結果は変わらなかった。分かっている。分かっているのに、腹の底に重いものが残っている。
怒っている。
許せないのか、と自分に問うた。
分からない。怒っている。でも、手紙を読んで少し楽になった。嘘をつきたくない、と書いてあった。脅迫だけではなく保身もあったと、正直に書いてあった。
父がこんなに正直に書いたものを、私は初めて読んだ。
公爵家の書斎で、いつも背筋を伸ばして座っていた父。完璧な挨拶、完璧な判断、完璧な体面。その父が、「私は自分の保身を選んだ」と書いている。
完璧でない父を、初めて見た気がした。
手紙を裏返したまま、しばらく動けなかった。
日が傾いてきた。
窓辺の鱗が、夕日を受けて赤く光っていた。銀色なのに、光の加減で色が変わる。朝は虹色で、昼は白で、夕方は赤い。
三枚の鱗を、指でなぞった。
丘の上の竜は、まだいる。夜になると影しか見えないが、朝になると銀色の体が光る。村人たちは最初は怯えていたが、何もしないと分かると慣れた。リーナに至っては「あの竜、おとなしいね。犬みたい」と言っている。犬ではない。
陛下は、なぜ帰らないのだろう。
私が戻れないと言ったのに。陛下のためだと言ったのに。正しいことを言ったはずなのに。
正しかったのか。
分からなくなっている。
父の手紙を、もう一度表に返した。
『出てきてはくれないだろうか。お前の口から、真実を語ってほしい。』
真実を語る。
審問に出る。冤罪を晴らす。名誉を取り戻す。
それは陛下のためではない。父のためでもない。
私のためだ。
七年間、黙って手紙を書いた。届けず、伝えず、自分の中に溜め込んだ。陛下への想いだけではない。偽聖女への疑念も、罷免令の不当さも、全部飲み込んだ。報告すべきことを報告せず、戦うべき時に戦わず、「陛下のため」という言い訳で自分を黙らせてきた。
陛下のため。
本当にそうだったのか。ただ怖かっただけではないのか。声を上げて、否定されるのが怖かったのではないか。
鱗を握った。手のひらに、硬い感触が食い込んだ。
もう、黙っていたくない。
「……行きます」
声に出した。小屋の中に、自分の声が響いた。思ったより低くて、思ったよりしっかりしていた。
「行きます。でも、陛下のためではなく、自分のために」
窓の外を見た。丘の上の竜は、夕日に染まって赤い。あの大きな体で、三日も丘の上に座っている。食事はしているのだろうか。水は。
心配している自分に気づいて、少し笑った。
父の手紙を畳んで、棚に入れた。鱗の隣に。ラヴェンダーの鉢の隣に。
全部、並んでいる。手紙と、鱗と、種と。
どれも、誰かが私に届けてくれたものだ。
明日の朝、丘に行こう。陛下に伝えよう。審問に出る、と。
でも今夜は、もう少しだけこの小屋にいたい。リーナが洗い残した朝の皿が、まだ卓の上にある。洗わないと。蝶番も直さないと。明日の薬草の仕込みもある。
やることがある。この村に、私のやることがある。
それがなんだか嬉しくて、少しだけ泣いた。今度は、理由が分かっていた。




