第7話 銀鱗の告白
村の広場に、竜がいた。
最初に聞こえたのは風だった。
朝の水汲みに出ようとした時、空気が変わった。上から叩きつけるような突風が小屋の戸を揺らし、軒先に吊るしたカモミールが千切れそうになった。
外に出た。
空を見上げて、息が止まった。
銀色だった。朝日を受けて、鱗の一枚一枚が白く光っている。翼が広場の端から端まで影を落として、着地の衝撃で地面が揺れた。土埃が舞い上がる。
村人たちが悲鳴を上げた。子供が泣いた。誰かが「逃げろ」と叫んだ。家の陰に駆け込む足音、戸を閉める音、井戸の桶が倒れる音。
私は走っていた。
逃げる方向ではなく、竜に向かって。
七年間の癖だ。陛下に何かあれば、まず駆けつける。考えるより先に足が出る。罷免されても、追放されても、この体は補佐官のままだった。
「大丈夫です!」
振り返って叫んだ。村人たちに向かって。
「この方は——」
言いかけて、詰まった。この方は、何だ。元上司。元主人。片想いの相手。そのどれも、村人に言える言葉ではない。
「危なくない方です。私の、知り合いです」
知り合い。七年間のすべてを、その一語で片付けた。
竜の頭が動いた。巨大な顔が、こちらを向く。琥珀色の目。人の姿の時より何倍も大きいのに、同じ目だ。光の加減も、瞬きの仕方も。
光が弾けた。
竜の体が縮んでいく。鱗が消え、翼が畳まれ、人の輪郭が現れる。銀の長髪が肩に落ちた。
陛下が、そこに立っていた。
五週間ぶりだった。
変わっていない。背が高くて、顔に表情がなくて、琥珀の目が何を考えているか読めなくて。変わっていないのに、何かが違った。
目の下に、薄い隈があった。
竜族も隈ができるのか。
陛下が片膝をついた。
広場の土の上に、膝をついた。白い衣が土に触れるのを構わず、頭を下げた。銀色の髪が肩からこぼれて、地面に届いた。
「アリシア」
低い声だった。いつもの声だ。でも、こんな声色は聞いたことがない。重くて、少しだけ震えていて。
「すまなかった。七年——いや、それでは足りないが」
言葉が途切れた。続きを探しているようだった。見つからなかったらしい。
息が震えた。
膝が折れそうになるのを、必死で堪えた。ここで泣いたら、もう立っていられない。泣くな。泣くな。
「……頭を、上げてください、陛下」
声が裏返った。こういう時にきちんと話せない。
陛下は頭を上げなかった。
「王太子が出した罷免令は越権行為だ。竜王補佐官の人事権は竜王にある。あの令は無効だ」
ゆっくりと、頭を上げた。琥珀の目が、私を見た。
「お前の名誉を取り戻す。偽聖女の正体も掴んだ。国王に公開審問を要請した」
片膝をついたまま、懐から書類を取り出した。宣言書。王宮への通達の写しだ。
受け取った。紙が揺れた。私の手が震えているからだ。
文面を読む目が滲んだ。だめだ。涙で読めない。拭って、もう一度読んだ。
罷免令の不当性の指摘。人事権の法的根拠。竜王の署名。
本物だ。
陛下が、ここまでしてくださった。
頭を上げた陛下の膝に、土がついていた。白い衣の膝が、茶色く汚れている。竜王が地面に膝をつくなど、千年の歴史でも聞いたことがない。竜族にとって、地に頭を垂れることは最大の——
涙を拭う暇もなく、手が伸びていた。
陛下の膝についた土を払おうとして、指が鱗に触れた。
人の姿でも、膝のあたりにはうっすらと鱗が残っている。銀色の、硬くて滑らかな鱗。指先に冷たい感触が伝わった。
「……汚れています、陛下」
何を言っているのだ、私は。再会の最初の言葉が、それか。
陛下が少しだけ目を見開いた。それから、何も言わなかった。
立ち上がった。私よりずっと背が高い。見上げなければ顔が見えない。七年間、いつもそうだった。
「戻ってこい、アリシア」
小屋に場所を移した。
狭い小屋に、陛下の体は大きすぎた。椅子に座ると、頭が天井に近い。卓の上に乾きかけの薬草と、リーナが洗い残した朝の皿がある。片付ける余裕がなかった。
陛下は薬草を見て、それから皿を見た。何か言いたそうにして、言わなかった。
「審問の準備は進めている。証拠は揃いつつある。偽聖女の魔道具の供給元も潰した。あとは、お前が証人として出廷すれば——」
「陛下」
遮った。遮ってしまった。
陛下が口を閉じた。
茶を出すべきだった。お客に茶も出さないのは非礼だ。でも体が動かなかった。この話を聞いたら、茶を淹れる手が震えて、カップを落とす。
「ありがとうございます。陛下がここまでしてくださったこと、感謝しています」
「感謝は要らない。戻ってこい」
「でも、私はもう戻れません」
陛下の表情が動いた。動いたと思った。ほんのわずか、眉の角度が変わっただけだ。他の人には分からないだろう。でも七年間、あの顔を見てきた私には分かる。
「私が陛下のお傍にいれば、また同じことが起きます。王太子派はまだ力を持っています。罷免令を撤回しても、私がいる限り『竜王を誑かした女』という噂は消えません」
「噂を気にしたことはない」
「陛下が気にしなくても、政治は気にします」
口に出してから、少し後悔した。生意気だ。元補佐官の分際で、竜王に政治を説いている。
でも、間違ってはいない。
「人間と竜族の共存体制は、陛下が築いたものです。私一人のために、それを危うくするわけにはいきません」
「お前一人の問題ではない。越権行為を見過ごせば——」
「それは正しいです。でも、越権行為を正すことと、私が陛下のお傍に戻ることは、別の話です」
陛下が黙った。
沈黙が長かった。小屋の外で、鳥が鳴いていた。リーナが遠くで誰かと話している声が聞こえた。「大丈夫だよ、先生の知り合いだって」と言っている。
「陛下のためを思えばこそ、です」
その言葉を言った時、自分の声がどこか遠くに聞こえた。正しいことを言っている。正しいはずだ。陛下の立場を守るために、私がいないほうがいい。それは事実だ。
事実なのに、喉が痛かった。
陛下が立ち上がった。椅子が軋んだ。
「それは——」
声が途切れた。
陛下が何かを言おうとして、やめた。初めて見る顔だった。怒っているのか、悲しんでいるのか、困っているのか。どれにも見えて、どれにも見えなかった。竜族は感情が乏しいと言われているが、違う。乏しいのではない。出し方を知らないのだ。
七年間、ずっとそうだった。
陛下は戸口に向かった。背中が大きい。狭い戸口を、少し屈んでくぐった。
振り返らなかった。
私もだ、と思った。裏門を出た朝、私も振り返らなかった。振り返れない人間が二人いて、その間に七年分の手紙が積んである。
外に出てから、陛下の声が聞こえた。低くて、小屋の中にはぎりぎり届く声だった。独り言だったのかもしれない。
「帰らない」
それだけだった。
窓から外を見た。陛下が広場を横切って、村の外へ歩いていく。銀色の髪が、夏の陽射しに白く光っていた。
村人たちが遠巻きに見ている。リーナがこちらに走ってきた。
「先生、あの人帰っちゃうの?」
「……分からないわ」
「泣いてるよ、先生」
頬に手を当てた。濡れていた。いつから泣いていたのか、自分でも分からなかった。
「泣いてないわ」
「泣いてるよ」
「……少しだけ」
リーナが何も言わずに、私の手を握った。小さくて、少し冷たい手だった。
窓辺のラヴェンダーの種は、三日前に植えたばかりだ。まだ芽は出ていない。




