第6話 窓越しの距離
村のはずれの小さな小屋に、明かりが灯っていた。窓の向こうで、あの女が薬草を潰している。
乳鉢を回す音が聞こえた。
規則的で、少し力が強い。昔からそうだった。書類を綴じる時も、茶を淹れる時も、彼女の手元にはわずかに力が余っている。丁寧にやろうとしすぎて、かえって力む。
なぜ、そんなことを覚えているのだ。
村の外れに立っている。小屋まで二十歩ほど。窓には薄い布が掛かっているが、隙間から中が見える。卓の上に乳鉢と薬草。壁に吊るされた乾燥花。蝋燭が一本。炎が時おり揺れるのは、戸の隙間から風が入るからだろう。
蝶番が悪いのだ、と思った。見れば分かる。戸の上端が枠から少し浮いている。あれでは風が入る。冬になれば寒い。
冬までここにいるつもりなのか。
足元の草が夜露で濡れていた。靴の底が湿っている。人の姿の靴は薄い。竜の足なら何も感じない地面が、人の足には冷たかった。
伝令がナハトから届いていた。日没前に受け取った短い報告。
『密偵三名、村の手前の森で排除完了。負傷者なし。当面の脅威は除去。なお、陛下の所在については誰にも報告しておりません』
最後の一文は余計だ。いや、余計ではない。ナハトはこういう男だ。必要なことだけを言う。つまり、私がここにいることを誰にも知らせていないと明示する必要があった。
竜王が辺境の小村に一人で来ている。知られれば問題になる。
では、なぜ来た。
確かめるためだ。彼女が無事かどうかを。
それだけか。
乳鉢の音が止まった。
窓越しに、アリシアが立ち上がるのが見えた。薬草を小瓶に移している。動作は手慣れている。補佐官室で書類を捌いていた時と同じ手つきだ。効率的で、少しだけ急いている。
彼女は唇を動かした。独り言だろう。声は聞こえない。何を言ったのか。
蝋燭を吹き消した。
小屋が暗くなった。
しばらく待った。
虫の声が聞こえる。蛙の鳴き声が遠くから重なっている。王宮の夜は静かだが、ここの夜はうるさい。だが不快ではなかった。
窓に近づいた。
布の隙間から、寝台が見えた。アリシアが横になっている。毛布を肩まで引き上げて、顔だけが出ている。目を閉じている。
疲れた顔だった。宿屋の主人が言った通りだ。自分の体を大事にしない。夜中でも戸を叩けば出てくる。眠れない夜は手紙を——いや、もう手紙を書く相手はいないのだ。
眠れているのか。
寝顔を見るのは初めてだった。七年間、同じ部屋で働いていたのに。彼女が眠る姿を見たことがない。あの風邪の日、マントをかけた時——あれは見たのか。見たはずだ。だが記憶が曖昧だ。顔を見たのか、背中を見たのか。
今は見えている。
頬が少し痩せたように見える。王宮にいた時より。光の加減かもしれない。蝋燭がないから、月明かりだけだ。銀色の淡い光が、彼女の額と鼻筋をなぞっている。
手を伸ばした。
窓枠に指が触れた。木の感触。冷たくて、少し湿っている。
その先に、彼女の頬がある。窓を開ければ届く。触れることができる。
指が止まった。
連れ帰る権利が、私にあるのか。
七年間、隣にいて、何一つ気づかなかった私に。彼女の手紙を一通も読まなかった私に。冷めた茶を淹れ直されていたことも知らず、風邪の日に薬草を混ぜられていたことも知らず、花びらがついていると言えずにいた彼女を見もしなかった私に。
彼女はここで暮らしている。小さな小屋で、蝶番の壊れた戸で、村人を診て、子供に文字を教えて。
私がいない場所で、彼女は生きている。
穏やかに見えた。少なくとも、今の寝顔は穏やかだった。
指を引いた。窓枠から手を離した。
何もしない。今夜は何もしない。
踵を返して、小屋から離れた。草を踏む音が妙に大きく聞こえた。人の体は不便だ。足音を消せない。竜の体なら空を飛べるが、人の体では草を踏むしかない。
村の外の林の中で、幹に背を預けて座った。眠るつもりはなかった。ただ、ここにいた。
夜が長い。
翌朝。
朝日が目に刺さって起きた。
リーナの声が聞こえる。小屋の中から。壁越しに、高い声がくぐもって届く。
「先生、昨日の夜ね、すごく大きな人がいたよ」
「大きな人?」
「うん。おじいちゃんの家から帰る時に見たの。村のはずれのほう。すっごく背が高くて、髪が銀色だった」
私の手が止まった。干し肉を噛みかけたまま、リーナの声に耳を傾ける。
「銀色の髪。きれいだったよ。月の光みたいだった」
「……リーナちゃん、それ、ほんとに見たの? 夢じゃなくて?」
「夢じゃないよ! おじいちゃんの家を出たのが夜の九時頃でね——」
「九時に一人で歩いていたの? 危ないわ」
「だっておじいちゃんがなかなか寝なくて」
話が逸れている。リーナは話が逸れる子だ。だが私は、アリシアが何を考えているか、壁越しでも分かった。
銀色の髪。背の高い人影。
もし彼女が可能性に思い至ったなら——。
立ち上がった。林を出て、村から離れた。足跡を残さないように、とは思ったが、人の靴では無理だ。夜露で柔らかくなった草に、深い跡がついている。
十分ほど歩いて、人目のない場所で竜の姿に戻った。体が広がる感覚は、窮屈な服を脱ぐのに似ている。翼を一度広げて、畳んだ。
飛ばなかった。このまま空に上がれば、村から見える。彼女に見える。
まだ、その時ではない。
小屋の中で、リーナの話が終わった。
終わったというか、朝食の話に変わった。
「先生、パンある? 今日のパン硬い? 昨日の残り?」
「昨日の残りよ。少し硬いけど、焼けばおいしくなるわ」
「じゃあ焼いて。先生の焼くパン好き」
パンを火にかけながら、私は考えていた。
銀色の髪。
この辺境に、銀色の髪の人間はいない。いるとすれば——竜族だ。人の姿をとった竜族。
まさか。
陛下がここに来る理由がない。私はもう補佐官ではない。罷免された元部下に、竜王がわざわざ会いに来るはずがない。ナハト殿が捜索の途中で近くを通ったのかもしれない。あるいは、竜族の巡回が辺境に来ただけかもしれない。
銀色の髪の竜族は、ナハト殿以外にもいる。陛下とは限らない。
焦げそうになったパンをひっくり返した。端が少し黒くなった。
「先生、焦げてる」
「大丈夫。この部分だけ取れば食べられるわ」
パンを皿に載せて、リーナに渡した。自分の分はまだ火にかけている。
食べ終えて、小屋の外に出た。
裏手に回った。昨夜、人影があったかもしれない方角だ。
草が踏まれていた。
足跡がある。大きい。村の男たちの靴よりもずっと大きい。深く沈んでいる。体重が重いのだ。普通の人間の足跡ではない。
足跡は小屋の窓の近くまで続いて、そこで止まっている。
窓の前で、立っていた。
誰かが、昨夜、私の窓の外に立っていた。
心臓が鳴った。
足跡をたどった。小屋から離れる方向に続いている。途中で草の倒れ方が変わった。歩幅が広くなっている。急いだのだ。
その先で、足跡は消えていた。林の手前で、唐突に。
人間なら、足跡は続くはずだ。林に入っても、土の上に靴の跡が残る。
足跡が消えるのは、歩くのをやめた時だ。
飛んだのだ。
空を見上げた。雲一つない夏の空。蒼くて広くて、何もいない。
足跡の終わりに、しゃがみこんだ。草が深く押しつぶされている。ここで姿を変えたのだ。人の体から、竜の体に。そうすれば足跡は残らない。翼で飛び立てば、地面に跡は残らない。
竜族だ。
竜族が、昨夜、私の窓の外にいた。
立ち上がった。膝についた草を払った。手が少し震えていた。朝の空気は涼しいのに、頬が熱かった。
陛下、とは思わなかった。思わないようにした。
思ったら、期待してしまう。期待したら、裏切られた時に立てなくなる。それはもう七年分やったから、知っている。
小屋に戻った。
リーナが皿を洗っていた。水が跳ねて、袖が濡れている。
「先生、おかえり。どこ行ってたの」
「散歩よ」
「うそ。顔が赤いよ」
「日焼けよ」
「朝なのに?」
返事をしなかった。
窓辺に置いたラヴェンダーの小皿が、朝日を受けて光っていた。まだ植えていない種。
植えよう、と思った。明日ではなく、今日。




