第10話 二千五百五十六通目
審問から三日後、辺境の村ブレンハイムに戻った。
村の入り口で、リーナが待っていた。
待っていた、というのは正確ではない。村長の家の前で石を蹴って遊んでいたところに、私が現れただけだ。でもリーナは私を見た瞬間に走ってきて、腰にしがみついた。
「おかえり、先生」
「ただいま」
「竜は?」
丘を見た。いない。銀色の影が消えている。審問のために王都に戻ったのだろう。丘の上には草しかなかった。竜が三日間座っていた跡が、草の潰れ方で分かる。大きな円形の窪みだ。
「いないみたいね」
「つまんない。おとなしくてよかったのに」
リーナの手を握って、小屋に歩いた。
小屋は三日前のままだった。蝶番は直した。鍵もつけた。でも窓辺の鱗は動かしていない。三枚、朝日を受けて光っている。
荷物を置いて、まず水を汲みに行った。それから薬草の乾燥具合を確かめた。カモミールは問題ない。ラヴェンダーの鉢を見た。
芽が出ていた。
小さな、淡い緑の芽。双葉が開きかけている。三日前はまだ土だけだったのに。
「リーナちゃん、水やりしてくれたの?」
「うん。先生がいない間、毎日やったよ。おじいちゃんが、植物は待ってくれないって言うから」
植物は待ってくれない。
その通りだ。人間も、たぶん。
昼過ぎに、予想しなかった客が来た。
馬車の音が村の入り口で止まった。この村に馬車で来る人間はほとんどいない。郵便屋は馬一頭だし、行商人は荷車だ。
小屋の外に出ると、父が立っていた。
旅装だった。見慣れない格好だ。父はいつも正装しか着ない人だった。高い襟と磨かれた靴と、完璧に整った袖口。それが今日は、埃っぽい外套を羽織って、靴の先が汚れている。馬車で五日かかる辺境に、自分で来たのだ。
「アリシア」
「お父様」
二人とも、それ以上何も言わなかった。しばらくの間。
風が吹いた。軒先のカモミールが揺れた。
「許してくれとは言わない」
父が口を開いた。手紙と同じ言葉だ。でも声で聞くと、違う。紙の上の文字よりも、ずっと掠れていた。
「ただ、お前の選択を応援させてほしい。どんな選択であっても」
父の手が、少し震えていた。袖の中で指を握っているのが分かった。昔からそうだ。緊張すると袖の中で拳を作る。子供の頃に気づいて、一度だけ聞いたことがある。「お父様、手が痛くないですか」と。父は驚いた顔をして、それから笑った。あの時の笑い方を、久しぶりに思い出した。
手を伸ばした。
父の手を取った。握り返した、のではない。ただ、指に触れた。拳を解くように、そっと。
「ありがとうございます、お父様」
許した、とは言わなかった。許せた、とも思わなかった。でも、ここに来てくれたことは嘘ではないと思った。馬車で五日もかけて、埃まみれの靴で。
父の目が潤んだ。
泣かなかった。この人は泣かない人だ。泣き方を知らないのだ。陛下と似ている、と思って、その考えを振り払った。似ていない。全然似ていない。
父が帰った後、夕方になって、ナハト殿が村に来た。
人の姿で、馬を引いている。
「アリシア殿。お届けものです」
手紙だった。
封はされていない。紙は上等だが、折り方が不揃いだ。角と角が合っていない。几帳面な人が書いた手紙ではない。
「陛下からです。それと、もう一つ」
ナハト殿が、布に包まれた小さなものを差し出した。開けると、銀色の竜を象った記章だった。補佐官の記章。留め金が少し曲がっている。
私が、机の上に置いていったものだ。
「陛下が手紙の束と一緒にお持ちでした。お届けするようにと」
手紙と記章を受け取った。記章は手のひらの中で冷たかった。七年間、毎朝胸につけていたもの。形を覚えている。重さも覚えている。
手紙を開いた。
『拝啓、アリシア。
手紙というものを、初めて書いている。竜族は手紙を書かない。必要な情報は口頭か公文書で伝える。個人的な感情を紙に残す習慣がない。
だが、お前が七年間そうしてきたのなら、私もそうしたい。
何を書けばいいか分からない。お前の手紙は二千五百五十五通あった。全部読んだ。最初の一通から最後の一通まで。
お前が淹れた茶の温度を覚えている。三十分ごとに淹れ直していたことを、今は知っている。風邪の日に薬草を混ぜたことも知っている。花びらのことも。回廊で息が切れていたことも。
お前が淹れた茶以外、味がしない。それに気づいたのは、お前がいなくなってからだ。
七年間、隣にいたのに、何も分からなかった。
最初の一通はこれにする。
戻ってきてくれ。補佐官としてではなく、私の隣に立つ人として。
七年分の返事を、これから書く。』
字が下手だった。
いや、下手というのは違う。慣れていないのだ。竜族は爪で彫るように書くから、筆圧が強すぎて紙が凹んでいる。ところどころインクが溜まって滲んでいる。行が右に傾いている。最後の方は字が小さくなっている。紙が足りなくなりかけたのだろう。
その不格好さが全部、陛下だった。
涙が落ちた。紙の上に。慌てて拭ったが、インクが少し滲んだ。
「アリシア殿」
ナハト殿の声が聞こえた。顔を上げると、ナハト殿が窓辺を見ていた。
鱗だ。三枚並んだ鱗。
ナハト殿の目が見開かれた。見開かれた、というのも控えめだ。この感情の薄い竜族の側近が、口を半ば開けて固まった。
「アリシア殿。その鱗のことですが」
「はい」
「……いつからそこに」
「陛下が丘にいらした時から。毎朝一枚ずつ、窓辺に置いてありました」
ナハト殿が額に手を当てた。人間で言うなら、深く息を吐くような仕草だ。
「竜族では——鱗を渡す行為は求婚を意味します」
知っている。知識としては知っている。子供たちに教えた。でもそれは竜族同士の話で——
「異種族に渡した前例は、史上ありません」
頭が真っ白になった。
「陛下が……毎朝?」
「そのようです。私は審問準備のため王都におりましたので、今初めて知りました。陛下は——」
ナハト殿が言葉を切った。何かを飲み込んだ顔だった。
「陛下は、こういうことを誰にも言わない方です」
知っている。知っている。あの方は、大事なことほど言葉にしない。必要なことほど説明しない。着任初日に許可印を渡して「これが要る」とだけ言った人だ。茶を黙って飲んで、感想を一度も言わなかった人だ。
毎朝、鱗を置いていった。
一度も「これは求婚だ」と言わずに。
手紙と鱗と記章を握りしめて、立ち上がった。
「ナハト殿、陛下は——」
「丘です。先ほど、竜の姿でお戻りになりました」
走った。
小屋を出て、村を抜けて、丘に向かって走った。正装の裾が草に引っかかった。構わなかった。靴が泥で汚れた。構わなかった。息が切れた。回廊を小走りで追いかけた七年間と同じだ。いつも私は、この人の後ろを走っていた。
丘の上に、竜がいた。
銀色の鱗が夕日を受けて赤く光っている。巨大な体が草の上に伏せている。頭がこちらを向いた。琥珀色の目が、私を見た。
「陛下」
息が切れて、声が掠れた。走りすぎだ。もう少し落ち着いて来ればよかった。でも、走らずにはいられなかった。
光が弾けた。竜の体が縮み、人の輪郭が現れた。銀の髪が風になびいた。
陛下が立っている。丘の上に。夕日を背にして。
私は息を切らしながら、手の中の記章を差し出した。
「これは、お返しします」
陛下が記章を見た。留め金の曲がった、銀の竜の記章。
「もう補佐官ではありませんから」
自分の声が震えていた。でも、言いたいことは他にあった。
陛下が記章を受け取った。指先が触れた。冷たかった。いつもと同じだ。
「ああ」
陛下が言った。記章を見つめて。
「もう補佐官ではない」
その声が、少しだけ柔らかかった。いつもの無表情な声とは違う。何かを確かめるような、手放すような、そんな声。
記章を懐にしまった陛下の手が、下がった。
今だ。
今しかない。
「陛下——いいえ」
呼び方を変えた。七年間、一度も使わなかった名前を。
「オルヴェス」
陛下の——オルヴェスの目が、わずかに見開かれた。
「私、ずっとあなたに伝えたかったことがあります」
風が吹いた。夏の風。温かくて、少し湿っていて、草の匂いがした。
「二千五百五十五通の手紙に書いたこと、全部本当です」
声が裏返りそうだった。喉が痛い。走ったせいだけではない。
「あなたをお慕いしております。——ずっと」
言った。
七年間言えなかった言葉を、言った。
手紙には何百回も書いた。でも声に出したのは初めてだ。声にすると、文字とは全く違うものになった。重くて、熱くて、取り返しがつかない。
オルヴェスが動かなかった。
一秒。二秒。
長い。竜族の時間感覚では一秒も二秒も変わらないのかもしれないが、人間の私には永遠だった。
それから、手が伸びてきた。
大きな手が、私の頬に触れた。
冷たかった。いつもの冷たさだ。でも、指先だけが少し温かかった。人の姿でいる時間が長いと、指先から温度が移るのだと、どこかで聞いた。
額が触れた。
オルヴェスが屈んで、私の額に自分の額を合わせた。銀色の髪が頬にかかった。息が近い。茶の匂いがした。私が淹れたものではない茶。味がしないと手紙に書いたくせに、飲んではいるのだ。
「七年分の返事を、これから書く」
低い声が、額越しに震えた。
唇が触れた。
どちらが先だったか分からない。私が少し顔を上げたのか、オルヴェスが屈んだのか。たぶん両方だ。
冷たい唇だった。竜族の体温は人間より低い。七年間知っていた。知っていたのに、こんなに近くで確かめたのは初めてだった。
短いキスだった。
離れた後、オルヴェスが私を見ていた。琥珀の目が、夕日で赤く染まっている。
何か気の利いたことを言うべきなのかもしれない。手紙なら書ける。推敲して、言葉を選んで、何度でも書き直せる。でも今は口しかない。口は不便だ。一度しか使えない。
「……字、下手でしたね」
言ってから、しまったと思った。千年を生きる竜王に向かって、字が下手とは何だ。
オルヴェスが、笑った。
笑った、と言い切れるほどはっきりした変化ではなかった。口元がわずかに動いて、目尻が少し下がっただけだ。他の人には分からないだろう。
でも、七年間あの顔を見てきた私には分かった。
笑っている。
「練習する」
「お茶も、自分で淹れる練習してください。味がしないなんて、茶葉に失礼です」
「お前が淹れればいい」
「補佐官はもう辞めました」
「補佐官としてではない」
丘の上で、二人で立っていた。夕日が沈みかけている。村の方から、リーナの声が聞こえた。「先生ー! ごはんー!」と叫んでいる。
振り返って、手を振った。
「今行くわー!」
オルヴェスが、村の方を見た。小さな村。小さな小屋。軒先のカモミール。蝶番を直した戸。
「あの小屋は狭い」
「ええ、狭いですね」
「私は入れない」
「座れば入れますよ。椅子は一脚しかないですけど」
丘を降りた。二人で。
坂道は緩やかで、隣を歩くと肩が近かった。オルヴェスが一歩遅れて歩いている気がした。
気のせいかもしれない。
でも、息は切れなかった。
窓辺のラヴェンダーは、まだ双葉だ。花が咲くのはずっと先だろう。
それでいい。急がなくていい。七年かかったのだ。もう少しくらい、かかってもいい。
手紙は二千五百五十六通になった。
二千五百五十七通目は、まだ書いていない。
でも、もう届ける気のない手紙は書かない。次は届ける。必ず届ける。
今度は声で。




