第4話 届かない届けもの
「見つけました」
ナハトの声に、手紙から顔を上げた。
「辺境の村ブレンハイム。王都から馬車で五日。村には医者がおらず、アリシア殿は薬草師として働いているようです。到着から二週間ほど。村人たちには本名を名乗っています」
本名で。隠れるつもりなら偽名を使うだろう。彼女は隠れているのではない。ただ、去ったのだ。
「行く」
立ち上がりかけた私を、ナハトが遮った。珍しいことだ。
「お待ちください。今陛下が動けば、その動きを王太子派が追います。アリシア殿の居場所が露見すれば、殿下がどう動くか分かりません」
「私が行けば、誰も手を出せない」
「陛下が辺境の小村に向かえば、理由を勘繰る者が出ます。アリシア殿の立場が余計に悪くなる可能性があります」
反論しようとして、やめた。ナハトの言う通りだった。私が動けば、彼女が「竜王を誑かした魔女」という冤罪の証拠を、自ら作ることになる。
椅子に座り直した。
正面の空席を見る。もう三週間、空いたままだ。
「……物資を送れ。匿名でだ。薬草の種、医療器具、保存食。小さな村の薬草師に必要なものを一式」
「承知しました。何か他に含めますか」
手紙の束に目を落とした。千七百通目あたりに、ラヴェンダーのことが書いてあった。砂糖漬けを育ててみたい、と。私のお茶に合うと思う、と。
「ラヴェンダーの種を入れろ」
ナハトが一拍黙った。
「……ラヴェンダーですか」
「千七百通目あたりの手紙に書いてあった。育ててみたい、私の茶に合うと思う、と」
それ以上は説明しなかった。ナハトも聞かなかった。退室する側近の背中に、何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
礼を言いたかったのかもしれない。あるいは、頼む、と言いたかったのかもしれない。どちらにせよ、口にはならなかった。竜族は感謝も懇願も下手だ。千年以上生きて、それだけは上達しなかった。
手紙に戻る。
千七百一通目。
『今日、陛下の隣を歩く機会がありました。回廊を、会議室までの短い距離です。陛下の歩幅は私の一歩半くらいで、少し小走りになります。陛下は気づいていません。たぶん、ずっと気づいていません。私がいつも少し息が切れていたことを。』
読み終えて、手紙を裏返しに置いた。
歩幅のことを、これ以上考えたくなかった。
同じ頃、王宮の別の場所では、全く別の会話が行われていた。
それを私が知ったのは、ナハトの翌日の報告によってだ。
王太子が、側近を集めて言ったらしい。
「あの補佐官を連れ戻せ」
側近の一人が聞いた。「どのような形で」
「罪人としてだ。罷免令はまだ有効だ。逃亡した元補佐官として連行しろ」
政務が回らないのだ、と王太子は言ったという。外交文書の翻訳は誰がやるのか。領地紛争の調停案は。税制改定の試算は。書庫のどこに何があるのか。
つまり、アリシアの仕事の価値にようやく気づいた。だが彼の言葉は「彼女に謝りたい」でも「名誉を回復したい」でもなかった。「使える人間を取り戻せ」だった。
追い出した相手を、道具として回収する。
ナハトがその報告をした時、私の中で何かが固くなった。怒りとは少し違う。もっと冷たくて、重い。
「密偵は何人だ」
「確認できた限り三名。すでにブレンハイムの方角に向かっています」
「アリシアに近づかせるな」
「承知しております。排除の手配は進めています」
排除。穏やかな言葉ではない。だが、穏やかでいられる状況でもない。
届け物が来た。
差出人はなかった。
木箱に入っていたのは、薬草の種が五種類、小型の乳鉢、銀の匙、消毒用のアルコール瓶、包帯が三巻、そして——小さな紙包み。
リーナが横から覗き込んだ。
「先生、なにこれ。誰から?」
「さあ。名前がないの」
紙包みを開けた。種だ。細かくて、薄紫がかった色をしている。
ラヴェンダーの種だった。
手が止まった。
ラヴェンダー。
手紙に書いた。陛下のお茶に合うと思う、と。いつか育ててみたい、と。あれは千七百通目あたりの手紙で、着任四年目の冬に書いたもので——
まさか。
首を横に振った。ありえない。
あの手紙を陛下が読んでいるはずがない。二千五百五十五通の手紙を、あの忙しい方が一通一通読むはずがない。ましてや千七百通目の、たった一行の、ラヴェンダーのくだりを覚えているなど。
偶然だ。薬草の種を詰め合わせたら、たまたまラヴェンダーが入っていた。それだけのことだ。
そう思おうとしたが、他の種を確認すると、カモミール、エルダーフラワー、タイム、セージ。全部、薬効のあるものばかりだ。実用的な選び方をしている。それなのに、ラヴェンダーだけが少し違う。ラヴェンダーは薬草としても使えるが、主な用途は香りと茶だ。薬草師への支援なら、もっと実用的な選択肢がある。
なぜラヴェンダーを入れた。
「先生、これきれいだね。なんの種?」
「ラヴェンダーよ。紫の花が咲くの」
「育てるの?」
「……ええ。育ててみましょうか」
種を握る手に、少しだけ力が入った。
偶然だ。偶然に決まっている。
でも、もし偶然でなかったら。
もし、陛下があの手紙を読んで、この種を選んだのだとしたら。
――考えるのをやめた。考えても、どうしようもない。私はもうあの王宮にはいない。陛下の隣にもいない。回廊を小走りで追いかけることも、冷めたお茶を淹れ直すことも、もうない。
木箱から乳鉢を取り出した。よくできた品だ。村のものよりずっと上等で、重さが手に馴染む。
「リーナちゃん、この乳鉢、使ってみない? カモミールを擂り潰すの、手伝ってくれる?」
「やるやる!」
リーナが飛びついてきた。小さな手が乳鉢を掴む。
私はラヴェンダーの種を、窓辺の小皿に入れた。すぐには植えない。まず土を用意して、日当たりのいい場所を見つけて、水はけを確認して。薬草師らしく、手順を踏もう。
手紙を書くように、一つずつ。
窓の外では、初夏の光が白く射していた。紫陽花がもう少しで咲きそうだ。
ラヴェンダーの種を入れた小皿を、窓辺に置いた。いつか植えよう。まだ今日ではないが、いつか。




