第2話 読めば読むほど
『拝啓、陛下。着任して三日目です。陛下は今日、会議中にお茶を一口も飲みませんでした。冷めたお茶がお嫌いなのだと気づいたので、明日からは三十分ごとに淹れ直します。あと、会議の席で陛下がずっと窓の外を見ていらっしゃったのですが、あれは退屈だったのでしょうか。それとも竜族の方は窓の外に何か見えるのでしょうか。今度ナハト殿に聞いてみます。』
八十三通目あたりで、文体が変わった。
最初の数十通は報告書に近い。今日の会議の要約、明日の来客の準備事項、書庫の整理状況。業務日誌を清書しているような堅さだった。
それが少しずつ崩れていく。
『陛下は雨の日、人の姿でいる時間が短くなりますね。竜の姿のほうが楽なのだと思います。でも午後の会議は人の姿でないと困りますので、せめてお茶だけでもと思い、温かいものをお出ししました。陛下は受け取ってくださいましたが、私の手ではなく、カップの方を見ていました。いつもそうです。』
いつもそうです。
その一文で手が止まった。何に引っかかったのか分からないまま、手紙を伏せた。
扉が叩かれた。昼前だった。ナハトが中間報告に来た。
「罷免令は王太子殿下の独断で発令されています。国王陛下への事前報告はありません。竜王補佐官の人事権は陛下にありますので、手続き上は明確な越権行為です」
「アリシアは」
「まだ足取りが掴めておりません。王都の門の通行記録を洗っていますが、未明に裏門を出た形跡があります。馬も馬車も使っていません。徒歩です」
徒歩で。
荷物はどれほど持てたのか。あの細い腕で。
「引き続き探せ。ただし、見つけても声をかけるな。怯えさせたくない」
ナハトが一瞬黙った。普段は即答する男だ。
「……承知しました」
何か言いたげだったが、私は手紙に目を戻した。ナハトの靴音が遠ざかる。
百二十通目。
『今日、陛下がお風邪を召されました。竜族は風邪をひかないと聞いていたのに。人の姿でいる時間が長すぎるのだと思います。お茶に薬草を混ぜました。苦みの出にくいカモミールに、エルダーフラワーをほんの少し。気づかれませんように。お願いだから気づかないでください。』
気づかなかった。
あの日の茶の味を思い出す。いつもより少し甘かった。甘いな、と思った記憶はある。それだけだ。彼女が何をしたのかは知らなかった。
横目で、棚の上の茶葉の缶が目に入った。彼女が毎朝使っていた缶だ。手を伸ばして、蓋を開ける。残りは半分ほど。茶葉の乾いた匂いがした。
何をしているのだ、私は。
蓋を閉じようとして、閉じなかった。缶を手元に置いたまま、次の手紙を開いた。
その頃、政務室では別の種類の混乱が起きていたらしい。
夕方、ナハトが二度目の報告に来た時、それを知った。
「王太子殿下が政務の処理を試みておられますが、滞っております。外交書簡の翻訳、領地紛争の調停案、税制改定の試算——いずれもアリシア殿が下書きされていたものです。後任どころか、引き継ぎ資料の所在すら誰も把握していません」
ナハトは淡々と報告したが、声の端に感情がわずかに混じっていた。この男にしては珍しい。
「王太子は何と」
「『たかが事務仕事だ、誰でもできる』と仰っていたそうです。ですが、実際には——」
「誰にもできなかった」
私の言葉に、ナハトが頷いた。
あの王太子は、アリシアの仕事を見たことがなかったのだろう。彼が見ていたのは、自分が竜王に認められない苛立ちだけだ。アリシアという人間がどれだけの量を処理し、どれだけの判断を代行していたか。知る気もなかったはずだ。
だから排除できた。重さを知らないものは、軽く捨てられる。
私もまた、知らなかった。
その事実が、茶葉の缶よりも重く、手の中に残った。
夜になった。
蝋燭を替えた。替えの芯は戸棚の三段目にあった。彼女がいつも補充していた場所だ。なぜ知っているのか。一度だけ、彼女が棚を開けるのを見たからだ。それだけの記憶が、七年経っても残っている。
三百通を過ぎたあたりから、手紙の中に仕事以外のことが増えた。
『今日、陛下の髪に花びらがついていました。中庭の桜でしょうか。取って差し上げたかったけれど、手が届きませんでした。身長が足りないのではなく、そういうことをしてよい立場ではないという意味です。陛下は気づかないまま会議に出られましたが、誰も指摘しなかったようです。竜王に花びらがついていると言える人間が、この王宮には私しかいないのかもしれません。それすら、私は言えなかったのですが。』
読み終えて、目を閉じた。
花びらの記憶はない。会議中にナハトが横から取ったのかもしれない。あるいはそのまま落ちたか。
どちらにせよ、彼女はそれを見ていた。見ていて、手が届かないと書いた。手が届かない。
別の意味が重なった気がして、私はその手紙をもう一度読んだ。
千通を過ぎた深夜、不穏な記述に当たった。
『セレスティア様の聖力浄化の際、不思議なことに気づきました。浄化の光の波長が、聖力の特徴と少しだけ違うのです。魔道具が放つ反射光に似ているような——。ですが、私は聖力の専門家ではありません。もし間違っていたら、聖女様の名誉を傷つけてしまいます。確証が持てない以上、報告はできません。けれど気になるので、記録だけ残しておきます。日誌にも書き写しました。』
手が止まった。
魔道具の反射光。
缶を握る指に力が入った。
「ナハト」
二度目の呼び出しに、側近は数秒で現れた。眠っていなかったのだろう。
「アリシアの政務日誌の写しが、補佐官室の鍵付きの棚にある。鍵は机の裏に磁石で留めてある。日誌を持ってこい。それから——」
手紙を机に置いた。置いてから、少しだけ丁寧に端を揃えた。自分でも意味の分からない所作だった。
「偽聖女の魔道具の流通経路を洗え。共存条約第七条の管轄で動ける」
「……アリシア殿の捜索と並行で、ですか」
「並行でだ」
ナハトが退室した。
茶葉の缶が、まだ手元にある。
蓋は開いたままだった。乾いた葉の匂いが、微かに執務室を満たしている。
彼女が毎朝、三十分ごとに淹れ直した茶。少し冷ましてから出した茶。風邪の日に薬草を混ぜた茶。
私はこの七年、何を飲んでいた。茶の味を知っていたのか。それとも、茶を淹れる人間のことだけを、知らなかったのか。
手紙はまだ千五百通以上残っている。
読まなければならない。この手紙を全部読んで、私はようやく、七年前に知るべきだったことを知るのだ。
窓の外で、夜が白み始めていた。二度目の朝だ。
正面の椅子は、まだ空いている。




