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七年分の手紙を残して姿を消した公爵令嬢を、竜王は世界の果てまで探すそうです  作者: 秋月 もみじ


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第1話 二千五百五十五通目の朝


『拝啓、オルヴェス陛下。これが最後の手紙になります。七年間、あなたのお傍で過ごした日々は、私の人生で最も幸福な時間でした。届けるつもりのなかった手紙ですから、最後くらい正直に書きます。――私は、あなたをお慕いしておりました。』


 封をしてから、少し迷って、封をしなかった。


 どうせ読まれないのだ。封蝋を使うほどのものでもない。


 補佐官室の窓は東向きで、夏の朝は早くから白んでくる。だがまだ暗い。蝋燭の芯が短くなっていて、炎が時おり痙攣するように揺れた。替えの芯は戸棚の三段目にある。いつも私が補充していたから、後任の方は場所を知らないかもしれない。


 ――後任。


 その言葉が妙に喉に引っかかって、私は手を止めた。


 机の右端に、七年分の手紙が積んである。二千五百五十五通。紐で百通ずつ束ねて、最後の端数だけ少し細い束になった。我ながら律儀というか、馬鹿馬鹿しいというか。


 毎日一通、届ける気もない手紙を書き続けた女がここにいる。


 鍵付きの棚に政務日誌の写しを入れ、施錠した。鍵は机の裏に磁石で貼りつけてある。これも後任に引き継ぐべきだが、引き継ぎ書を書く相手がいない。


 竜脈管理の許可印を、保管庫に返却した。指先から印が離れた瞬間、かすかに温かかった金属が急に冷えた。七年間、私の手のひらの温度に馴染んでいた小さな印章。


 陛下から直接いただいたものだ。


 着任初日、陛下は何の説明もなく印を渡してきた。「これが要る」とだけ言って。竜脈管理弁の操作方法も、許可印の意味も、全部ナハト殿に教わった。陛下は説明が下手だ。必要なことほど言葉が足りない。


 不思議と腹は立たなかった。あの無愛想さが、嫌いではなかった。


 ――嫌いでは、なかった。


 手紙の束を持って、補佐官室を出る。廊下は暗く、自分の靴音だけがやけに響いた。この廊下を何千回歩いただろう。左から三番目の石畳が少し浮いていて、急いでいると躓く。初めて躓いた日、書類を廊下に撒き散らした。陛下が無言で一枚だけ拾って、こちらを見た。あの琥珀色の目。


 やめよう。思い出を数え始めたら、足が止まる。


 陛下の執務室に入る。この時間、陛下はまだ竜族居留地にいる。窓から入る風に、少しだけ夏の湿気が混じっていた。


 執務机の上に、手紙の束を置く。一番上に、今朝書いた最後の一通。


 補佐官の記章を外して、手紙の隣に置いた。銀の竜を象った小さな記章。七年間、毎朝これを胸元につけた。留め金がほんの少し曲がっている。いつ曲がったのかは覚えていない。


 三日前のことを、思い出す。


 貴族の集まる広間で、セレスティア様が泣いていた。きれいな泣き方だった。声は震えているのに、涙の筋が頬の一番きれいな線を通る。人前で泣くのが上手い人がいるものだと、場違いなことを考えた。


「竜王陛下の補佐官アリシア・ヴァレリウスは、その地位を利用して陛下を誑かし、不当に政務へ介入しております」


 ルキウス殿下が令状を読み上げた。王太子権限による即時罷免および王宮追放。殿下の声は堂々として、一点の迷いもなかった。


 広間にいた貴族たちの視線が、一斉にこちらへ向いた。


 父は、後列にいた。目が合った。父は何も言わなかった。唇が少し動いたように見えたが、声にはならなかった。


 陛下に訴えることはできた。竜王補佐官の人事権は竜王にある。この罷免令は越権行為だ。陛下に一言告げれば、令状は紙切れになる。


 でも、そうすれば陛下と王太子が正面から対立する。人間と竜族の共存体制そのものが揺らぎかねない。


 七年間支えてきたものを、私一人のために壊すのか。


 壊せなかった。


 裏門を出る。


 振り返らなかった。振り返ったら、たぶん泣く。泣いたところで何も変わらないし、門番に不審がられるだけだ。


「お元気で、陛下」


 声が掠れた。


 夏の空気が頬に触れた。少し生温くて、湿っている。


 街道に出ると、空が白み始めていた。王宮の尖塔が、朝焼けの中で黒く浮かんでいる。


 私は歩いた。足元の石畳がやがて土に変わっても、振り返らなかった。


 朝が来た。


 いつも通りの朝だった。


 執務室に入ると、窓が開いていた。昨晩、彼女が開けたのだろう。初夏の湿った風が書類の端を揺らしている。


 椅子に座った。正面の席が空いている。


 彼女は常にこの席にいた。私の正面で、書類を読み、茶を淹れ、来客の名前を告げた。七年間、一日も欠かさず。


 ――いや、三日ほど欠けたことがある。高熱を出して、自室で寝ていた時だ。


 あの時、私は何をした。


 思い出せる。思い出せるが、今はいい。


 机の上に見慣れないものがあった。


 紙の束。紐で束ねられた大量の紙。そして、銀色の補佐官記章。


 記章の留め金が、少し曲がっていた。


 一番上の紙を手に取る。封がされていない。


『拝啓、オルヴェス陛下。これが最後の手紙になります。』


 最後の、手紙。


 目が束に戻る。二十五束と少し。一束はおよそ百通。


 いつから書いていた。


 一番下の束を引き抜く。最も古い紙。少し黄ばんで、端が擦れている。


『拝啓、オルヴェス陛下。本日より補佐官を務めますアリシア・ヴァレリウスです。正直に申しますと、竜が怖いです。でも、あなたの人の姿はとても綺麗でした。今日、お茶をお出ししたら「要らない」と言われました。明日は聞かずに置いておこうと思います。』


 手が止まった。


 二通目に手を伸ばしかけて、やめた。先にやることがある。


「ナハト」


 声が出た。自分の声が低く響いたことに、少し驚いた。


 側近が現れるまでに数秒。その数秒が、いつもより長く感じた。


「アリシアを探せ。罷免令の経緯も調べろ。――王太子が独断で出した令だ」


「は。直ちに」


 ナハトが退室する。靴音が遠ざかる。


 私は二通目を開いた。


『拝啓、陛下。二日目です。お茶を聞かずに置いたら、一口だけ飲んでくださいました。冷めないうちに、と思って少し熱めに淹れたのですが、猫舌でいらっしゃったのですね。明日からは少し冷ましてからお出しします。』


 茶を一口飲む。


 冷めていた。


 彼女が淹れたものではないと、舌が知っていた。そんなことを気にしたのは初めてだった。


 三通目を開く。


 窓から入る風が、紙の端を揺らした。


 二千五百五十三通が、まだ残っている。

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