慰めと再起
寝ていたわけではないと思う。しかし体感時間はめちゃくちゃで、部屋にこもってから何分、何時間経過したのかさっぱり分からない。
とにかく、俺の頭は扉を叩くノックの音で覚醒した。
「誰、ですか?」
小さな声で呼びかける。当然扉の外にいる人に聞こえるはずもなく、ノックの音だけが繰り返される。
また佐久間さんだろうか? しかし彼ならノックなどせずに部屋に入ってくるか、大声で呼びかけてきそうなところだ。
でも、彼以外で今の俺に用がある人なんているだろうか。
霧がかかった思考のままベッドから体を起こし、扉を開けに向かう。
ドアノブを掴んだところで、一瞬躊躇する。しかし結局、無防備なまま扉を開けた。
扉の先にいたのは、有馬さんだった。
「良かった。無事……とは言い難いかもしれないですが、最低限動く元気は戻ったようで何よりです」
ほっと安堵の息を吐きながら、有馬さんは穏やかな笑みを浮かべる。
俺は反射的に「どうも、その節はご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。
「ああいえ、頭を上げてください。こちらこそあの状態のあなたを無理やり連れて行ったこと、謝罪しないといけません」
「それこそ、気にしないでください。三人も殺されたあとなんですから。無理やりにでも連れて行くのが正しい判断だと思います」
そう。彼の選択は正しい。俺が三人を殺した犯人の可能性だって十分あるのだ。単独行動を許さず連れて行くのは当然。それが最も正しい選択だった。俺とは違って。
「それで、どうしてここに? 監視、ですか?」
有馬さんは眉を下げ首を横に振った。
「違いますよ。喜一郎君に頼まれたんです。あなたのことが心配だから見てきてほしいと」
「佐久間さんに?」
意外な答えに、俺は少しだけ目を見開く。
普段のあの人なら誰かに任せることはせず、自ら足を運ぶはずだ。まさかとは思うが、先に俺が手を振り払ったことにショックを受けたのだろうか。そんな繊細な人ではないはずだが。
戸惑う俺の前で、「それはともかく」と有馬さんが口を開く。
「少し、お話しできませんか? これが酷な頼みであることは重々承知していますが、今はとにかく情報が足りなくて。斎藤さんが見たこと聞いたことを教えていただけるとありがたいのですが」
「別に、言うのは構いませんけど。そういうのは、警察が来たらでいいんじゃないですか?」
「警察は来ません」
「は?」
あっさり告げられた衝撃の事実。
警察が来ない? いったいなぜ?
口を開けて固まった俺を見て、有馬さんは慌てて手を振った。
「誤解を生む言い方でしたね。すぐには来れない、という話です」
「それはそれで、どうして? やっぱり土砂崩れが起きて道がふさがったとか?」
「いえ、そもそも通報ができていないんです。ここは電波が届かず、電話線も引いていないとのことで。今は谷上さんが車を使って助けを呼びに行っているところです」
「そう、なんですね……」
俺はポケットの中のガラケーを思い出し、内心で首を傾げる。昨日確かに相澤さんと通話できていたはずだが。
なんとなく、これを今告げるのはまずいと感じ、口を噤む。代わりに、俺は昨日からの出来事――アリスさんが部屋を訪ねてきた時から、思い出せる限りの話をした。
話せば話すほど、自分の愚鈍さと身勝手さが浮き彫りになり、嫌悪感が強くなる。
後半は見たことの話というより、自分がどれだけ無能だったかを吐き出す懺悔のようになっていた。が、有馬さんは一切遮ることなく聞いてくれた。
どれだけの時間が経ったのか。自己嫌悪の言葉を吐き出すのにも疲れ、ようやく舌が動きを止めた。
そして、しばらくの沈黙の後、
「斎藤さん、君は何も悪くない。彼女たちは仕方なかったんだ」
そう、有馬さんが囁いた。
いつの間にか流れていた涙がピタリと止まり、俺は有馬さんの顔を見つめた。
「でも、俺がずっとそばにいたなら……」
「それが決して叶わないことを、君が一番理解しているんじゃないかな。彼女たちはそれぞれ歪みを持っていて、周りの言葉を受け入れられる状態じゃなかった。君が何をしても、結末は変わらなかった」
「じゃあ……じゃあ、どうすればよかったんですか!? どうすれば、彼女たちを死なせることなく今日を――」
「それは無理だったんですよ」
「無理……」
有馬さんは、神妙な表情で頷く。
「君の人を助けたいと思う心は立派です。けど、実際に助けられる人には限りがある。所詮他人でしかない僕たちにできることは、無数にいる傷ついた人たちの手を取ることでなく、生きて行ける場所のヒントを告げ、その方向を示すことだけなんです。それ以上のことは、他人である以上決してできない。それとも、君は彼女のために自らの人生を捧げる覚悟がありましたか?」
「それは……」
「一人の人間にできることには、限界がある。誰かを救ってあげるなんて言うのは傲慢で、許容量を超えた、無理難題なんです。僕らにできるのは、あくまで道を指し示すことだけ。アドバイスをするだけ。それ以上を望むのは、分不相応な願いというもの。周りの人も、君自身も不幸にする諸刃の剣です」
「……」
「君は十分に頑張りました。何も恥じることはないし、気に病むことはない。だから――」
「一つ、聞いてもいいですか」
俺はうつむいたまま、ポツリと呟く。有馬さんは驚いた表情を浮かべるも、笑顔で頷いた。
「勿論、なんでも聞いてください」
「もし、有馬さんの目のまえに、百社以上の会社に落ちて、就職先が決まらず、人生に絶望している人がいたらどうします?」
有馬さんは考えるそぶりも見せず即答する。
「それは当然、話を聞きますよ。落ちてしまう原因を一緒に考えて、解決策を模索する。そして適性がありそうな仕事があればそれを斡旋してあげます」
「うまくいかない原因が、咄嗟の事態にパニくってしまうアドリブ力の欠如だったら?」
「それは難しい問題ですね。アドリブ力は主に経験で養われるもの。だからまず、とっさの判断を迫られるような経験ができるイベントを紹介するかもしれません。もしくはそういう判断をしなくていいような、裏方の仕事をお勧めするとか」
ごちゃごちゃしてまとまらないでいた頭の中が、少しだけ整理される。
霧に包まれた思考に、光の筋が降り注ぐ。
俺は口元を手で隠しながら、「もう一つ、聞いてもいいですか」と尋ねた。
「もしある人が、他人が嘘をついているかどうか分かる力を持っていて、それゆえに人生が生きづらくて苦しんでいたらどうします?」
笑顔だった有馬さんの表情が、やや怪訝なものに変わる。
「それはどういう質問でしょうか? 嘘を見抜く力がある人なんて存在しませんが」
「いいから、仮にそう言っている人がいたとしたらで考えてください」
「……そうですね、カウンセリングを受けるよう勧めます」
「カウンセリング?」
「ええ。嘘を見抜く力なんて存在しません。あるとすれば、そう思いたくなるようなストレスを受けているか、嘘を見抜いたとしか思えない偶然が続いて誤解してしまっているから。だからカウンセリングを受けて、少しずつ自分を取り戻していってもらうよう――」
「はは。あっさ」
「え」
険しい顔で彼は俺の顔を覗き込んでくる。
俺はにやけだした口角を必死に抑えながら、「いえ、すいません」と首を振った。
「有馬さんの言葉は正しいですよ。そう、それが普通で、まっとうで、誰もが認める最適解です」
「それなら――」
「でも、それは俺の求めてるものじゃない」
仕事を斡旋してあげる。
カウンセリングを受けるよう勧める。
満点な答えだ。そう、普通そうなのだ。落ち込んでいる相手、絶望している相手は、自分より下の存在なのだから。上から手を差し伸べ、適した場所に連れて行く。
なのに、あの人は違った。
落ち込み絶望し、少し背を押せば簡単に死にそうな世界一の弱者相手に、隣から、なんなら下から手を差し出してきた。
一度も、無理だとは言わなかった。
こうすべきだなんて言わなかった。
だから、俺はその手を取りたいと思ってしまったのだ。
「ああ、それが俺のなりたい人なのか」
光の筋が無数に増え、気付けば霧など見えなくなっていた。
険しい顔で固まっている有馬さんに、俺は深々とお辞儀する。
「有難うございます。あなたのおかげで俺が今やるべきこと、いや、やりたいことが分かりました。それじゃあ行ってきます」
晴れ渡った思考と視界の中、俺はあの人の元に向かってひた駆けた。
なんとなく、どこにいるのか分かる気がして、その熱のままに足を動かす。
そして、予想通りの場所――万里さんの部屋の前で黙祷を捧げる佐久間さんを見つけた。
彼は俺の姿を認めると、いつもの胡散臭い、満面の笑みで出迎えた。
「おや! 先ほどとは打って変わってとても晴れやかな顔をしておりますね! 何か良いことでもありましたか!」
「ええ、まあ。おかげさまで気づけたんです。俺って、欲張りな人間だったんだなって」
正論も詭弁も糞くらえだ。何が正しいかなんて関係ない。何が幸福かなんて関係ない。俺は、俺がしたいと思ったことを成し遂げる努力をすればいい。
救える人を選ぶ正しさなんていらない。そんな正義の味方より、俺は誰をも幸せにできる詐欺師になりたい。
「佐久間さん。俺に、力を貸してくれませんか?」
思い返せば、こうして正面からお願いするのは初めてかもしれない。
佐久間さんは一瞬目を見開いてから、花丸笑顔で俺の手を取った。
「勿論です。頼一さんのやりたいことを応援するために、私はここにいるのですから」




