抱えきれない期待
十分以上の時間をかけ、有馬さんと俺は食事処に到着した。
成人男性を六階から一階まで一人で運ぶという重労働により、有馬さんは大きく息を乱している。一方の俺は、呼吸しているのかどうかもよく分からない状態だ。
そんな対照的な二人の姿が滑稽だったのか、玉藻さんが口元に笑みを浮かべながら口を開いた。
「これでようやく全員揃ったね。んじゃまあ、早速何が起きたか聞かせてもらおうか」
皆の視線が俺に集中する。けれど、俺から言えることは何もない。
何も答えず沈黙していると、有馬さんが庇うように前に出た。
「今、斎藤さんは混乱していて話せる状態にありません。追及は後にしてください」
「ふーん。昨日会ったばかりの相手が死んだ程度でそこまでショック受けるなんて、随分と繊細だねえ」
玉藻さんから冷たい視線が飛んでくる。俺が反応しないでいると、彼女は小さく息を吐いてから、三日月形の笑みを浮かべた。
「彼から話を聞けないっていうなら、先にビジネスの話をしようか」
「ビジネスの話?」
どう考えても今すべきでない話題に、有馬さんが目を怒らせる。
しかし玉藻さんは気にすることなく続けた。
「そうさ。うちの予言通り、今日この館で三人が殺された。これでうちの予知能力が本物だって証明になっただろ。ああついでに、クラフトの作った『未来を視る義眼』がおもちゃだってことも証明されたね。何せ外は快晴で土砂崩れも起きてないんだから」
「くそ、何がどうなってる……。こんなはずじゃ……」
今朝、谷上さんも外が晴れていると言っていた。万里さんによればクラフトさんは気象予報士の資格を持っていて、天気には自信があるとの話だったが。今回は調子が悪かったのだろうか。
「……あなたの予知通り三人が殺された。それはつまり、あなたが殺したってことじゃないんですか?」
有馬さんが険しい声で咎める。玉藻さんは余裕の笑みを返した。
「随分な理屈だね。うちが殺した証拠でも持ってんのかい?」
「それはまだ、ありませんが。警察が調べればすぐにでも」
「なら警察が来てから言ってくれるかい。少なくとも今、うちの予言通りのことが起きた。それが全てだろう? 犯人扱いしたいならそれだけの証拠を出してもらわないとね」
「……分かりました。それなら昨日から今日にかけて何をしていたか――」
耳の中を、有馬さんと玉藻さんの応酬が通りすぎていく。
俺はぼんやりとした思考で、この場に集まっている人たちを見回した。
人が死んだというのに、誰もかれも悲しみの表情を浮かべていない。娘が二人とも亡くなった英樹さんも、どんな感情でいるのかさっぱり分からない無表情。現実を受け入れられず茫然自失しているようにも、何も感じず無関心でいるようにも見える。
よく分からない。人が死ぬというのは、この程度のことだっただろうか?
そういえば、佐久間さんは何をしているのか。あの話さないと死ぬ生き物の声が、さっきから全く聞こえてこないけれど。
うろうろとさまよう俺の目は、ほどなく彼の姿を見つけた。
佐久間さんは、部屋の隅で、体育座りをしながら、口を真一文字に固く結んで、大粒の涙を流していた。
――ああ、なんかほっとするな。
玉藻さんの言った通り、昨日今日知り合ったばかりの人が死んだところで、悲しみを抱く方がおかしいのかもしれない。普通はその死を悼むより、その人が死んだことによる影響や、その後処理に思いをはせ、悲しんでいる余地なんてほとんどないのかもしれない。
でも、佐久間さんの、人の死を悼み悲しむその姿は、嘘だとしても心をじんわりと温かくさせた。
だけど、それと同時に、自分はいったいなんなのだろうと思ってしまう。
玉藻さんのように割り切るわけでもなく、佐久間さんのように悲しむわけでもない。ただひたすらに、自分の行いを後悔して後悔して、身動きが取れなくなっている。
後悔したって遅いのに。現実を見たくなくて、延々と後悔を繰り返す。
結局、これ以上自分を傷つけたくないだけなのだろう。ただただ、責任から逃げ続けているだけ。
ああ、気持ち悪い。
また吐き気が込み上げてくる。
俺は小さな声で、「すみません、やっぱり部屋に戻ります」と告げる。
それからふらふらとした足取りで、出口へと歩き出した。
誰かが呼び止める声が聞こえた気がする。だけど、俺の脳はそれを言葉として認識できない。
結局そのまま部屋を出て、階段へと進んでいく。
階段を上がろうとしたところで、不意に手を掴まれた。
緩慢に振り返れば、目と鼻から涙を流した佐久間さんが、必死の形相で俺の名を呼んでいた。
「頼一さん! 頼一さん! 今あなたは一人でいるべきではありません! お願いですから私たちと一緒にいてください!」
「……大丈夫ですよ佐久間さん。別に、一人になったからって自殺したりしませんから」
そう。俺にそんな勇気はない。ただ今は、誰の顔も見たくなかっただけ。
どんな形であれ前を向いて生きている人たちの中に混ざりたくなかっただけのこと。
しかし佐久間さんは、大げさに何度も首を振った。
「一人でいたい! その気持ちを尊重すべきだということは分かっています! しかし! どうしても今のあなたを一人にしておきたくないのです! どうか私の我儘を聞いてもらえないでしょうか!」
「……ねえ佐久間さん。俺のせいで、二人は、いや、三人は死んだんですよ」
意固地になったこの人を説得する言葉を俺は持たない。だけど皆と一緒にいたくないのも事実。だから、俺は今の状態でも唯一語れる話題を――自分の罪を一方的に吐き出すことにした。
「俺は、知ってたんです。万里さんの身が危険なことを。アリスさんとイリスさんの事情を。二人から一緒にいてほしいと言われて、イリスさんと一緒にいることを選んで。俺が選ばなかったからアリスさんが死んで、そのあと勝手な俺の感情からイリスさんのそばも離れて、結局イリスさんも殺されて。全部、俺が悪いんです。俺が選択を間違えたから……」
本心では何も起きるはずがないと思い込んで、三人を助ける行動を中途半端にし、自分にとって楽な道を選んだ。
たった一日。たった一晩。彼女たち三人に、一緒に同じ部屋にいてもらうようどうして頼まなかったのか。
俺だけが、彼女たちを救える立場にいたのに――
「頼一さん。本質的に選択の失敗、間違いというものは存在しないのです」
「……え?」
心の奥底に沈んでいた思考に、佐久間さんの声が混ざる。
何を言われたのかすぐに理解できず、ゆっくりと反芻する。それから俺は死んだような笑みを浮かべた。
「……何言ってるんですか。そんなわけないじゃないですか。現に俺は選択を間違えて三人を――」
「もう一度言いますが、あなたが何を選ぼうとも、その選択自体は決して間違いではありません。あくまで選択の先に、あなたの望まない出来事が起きただけなのです」
「だからそれを間違えたっていうんですよ……」
「いいえ違います! 何度でも言いますが、間違えてはいないのです!」
生気を失った俺の前で、佐久間さんは一生懸命に、首を横に振る。
「では頼一さん。あなたにとっての選択の結果、その終着点はどこにありますか? あなたはどの選択をするために今まで生きてきましたか? 彼女たちを助けるというその選択肢を得るために今日まで生きてきたのですか?」
「それは、違いますけど」
「ええ違うはずです! 私たちは特定の選択をするために生きてきたのではない。何かこれをすればゴールで終着点だという、そんな最果てを持ってはいないのです! いつだって私たちは、選択と選択の過程にあり、結果には辿り着けていない」
「それは詭弁でしょう。少なくとも、短期的な結果は無数にある」
「ではあなたはこれからどうするのですか。彼女たちが亡くなっても、あなたの人生はまだまだ続くのです。これからはどう生きていくおつもりですか?」
「そんなの……」
俺は唇を強く噛む。
弱く卑怯な俺が、これからどう生きていくかなんて分かりきっている。
この苦しみを、後悔を、胸の奥底にしまい込み。まるで何もなかったかのように、これまで通り普通に生きる。そしてごくたまに、今日のことを思い出し鬱になる。
たったそれだけ。
そう、それだけの違いしか生まれない。
自分の醜さが気持ち悪くて、顔を俯けることしかできない。
だけど、目の前のこの人は、俺に、俺の醜さを認めさせてはくれなかった。
「頼一さん。人生の選択で唯一の間違いは、死を選ぶことのみなのです」
「人は死ぬ選択以外であれば何をしてもかまいません」
「人を救いたければ救えばいい。人を蹴落としたければ蹴落とせばいい。今の生活に、今の自分に満足がいかないのなら、逃げて逃げて、たまに努力して、いつか理想を実現すればいいだけなのです」
「それは、生きてさえいればいつだって何度だって叶えられるチャンスがあるのですから」
「……」
佐久間さんの言葉は、正論であり詭弁だ。
確かに生きていればチャンス自体はあるだろう。でも、叶えられる確率はどんどん下がっていく。生きれば生きるほど、選択肢は狭くなる。
それに何より、過去を変えることはできない。もう、万里さんも、アリスさんも、イリスさんも、救う選択肢は閉ざされてしまった。
「今の俺に選べる選択肢なんて――」
なおも弱音を吐く俺の声を、佐久間さんの激情が塗り潰す。
「頼一さん。もっと世界を自由に視ていいのですよ。生きていく上で私たちの前には無数の難問が出題します。そしてそれらは一見二択三択であるかのごとく迫ってきます。しかし! それは間違いです! 私たちの目のまえに広がる選択肢はいつだって無限大! 学校のペーパーテストとは違い、欲する選択肢がなければ自ら作り出し、その解を新たに導けばいい! 人類のその傲慢さと果てなき欲求がこんなにも素晴らしい世界を生み出したのですから!」
「今、欲しい選択肢」
いったい、俺は今どんな選択肢を望んでいるのだろう。ハッピーエンドに向かう選択肢があればいくらでも作りたいが、三人が死んだ今、何をすればハッピーエンドに向かえるのか想像もつかない。
強いて言うなら、俺の選択で誰かが不幸になることだけは絶対に避けたい。今の希望は、それぐらいのものだった。
考えることを放棄してしまった俺とは対照的に、佐久間さんは何かを語り続ける。それらは全て俺を慰めるための言葉。再び立って歩みだせるよう励ます言葉。
有難い。有難いけれど、今の俺には支えきれない期待だった。
残っている力を全て使い佐久間さんの手を振り払う。そして、ふらふらと自室へ歩みだす。
今は一人でいたい。何も聞きたくない。何もしないという選択肢を選びたい。
佐久間さんが再び俺の手をつかむことはなかった。だけど、去り行く俺の背が見えなくなるまで――見えなくなっても、
「頼一さんがここで立ち止まるということは、将来救えたはずの命を諦めるということでもあります! この館で会ったばかりの彼女たちにここまで感情移入できる頼一さんなら、これからもっと多くの人たちを救うことができるのですから! 私はいつまでも――」
あの人は、延々と、永遠と声をかけ続けた。




