悪夢
「それじゃあ、心の準備はいいですか」
「……はい、大丈夫です」
緊張からかイリスさんの具合が悪くなり、通路脇の椅子で休むこと数分。何とか動く元気を取り戻した彼女を連れ、俺は606号室の扉を叩いた。
内心、かなり緊張していた。アリスさんの言った通り、俺は彼女でなくイリスさんといることを選んだ。さぞかし失望したことだろう。
いったいどんな冷たい目で見られるのか。彼女の美貌と相まって、想像するだけでも背筋が凍る。
それでも、これは俺が選んだ結果なのだから。甘んじて受け入れなければならない。
しかし――
「出て、来ませんね」
「そうですね……」
三回ノックしてみるも、扉が開く気配はない。少し強めに叩いてみるが、やはり何の反応も見られなかった。
「部屋を間違えてる、ってことはないですよね?」
「そんなことはないと思うけど……」
部屋の番号は間違いなく606と書かれている。単純に警戒しているから出てこないと考える方が自然だろうか。
試しにドアノブをひねってみる――開いた。
俺とイリスさんは一度顔を見合わせてから、扉を押し開く。
途端に、生ぬるい、気持ちが悪くなる臭いが鼻腔をついた。
最悪の未来が脳裏をめぐる。
あってはならない、あるはずのない未来。
部屋の中に足を踏み入れる。
中は整然としていた。
家具は何一つとして乱れた様子はなく、ベッドの上もしわ一つなく整えられたまま。
ただ、異常が一つ。
部屋の中央。床の上。腹部からナイフを生やしたアリスさんが、大量の血を流し倒れていた。
「……」
目の前の現実を受け入れることができず、俺は呆然と彼女の死体を眺める。
死体、そうとは限らないんじゃないか。大量の血を流しているだけで、まだ死んでいない可能性もある。それとも、ただのドッキリとか。
引きつった笑みを浮かべながら、俺はアリスさんに近づく。
こういう時、まずは何を確認したらいいのか。呼吸、脈拍の確認? いやまずは、声をかけて反応がないか確かめないと。
「アリス、さん? 生きて、ますよね?」
彼女の肩をそっと叩く。なぜか、反応は返ってこない。
呼吸をしているか見ようと彼女の口元に手を添え――虚ろな瞳と目が合った。
絶対に生きていない。死んだ者にしか浮かべられない表情。
「なんで――」
「あは」
不意に、背後から声が聞こえた。
緩慢に振り返れば、髪をかき上げ、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべたイリスさんが、嗤っていた。
「あは、あはははははは! やった! やった! 私が生き残った! 私が選ばれた!」
とても無邪気な嗤い声。本心から、素直に、感情を発露させているのが嫌でも伝わってくる。
これが、さっきまで怯えて泣き出しそうだった女性の姿か?
突然の変貌に、何も言葉が出てこない。
アリスさんが死に、イリスさんが生き残る。
断言できる。この結末を望んではいなかったと。でも、間違いなく、こうなる可能性を理解した上で、俺はアリスさんでなくイリスさんの隣にいることを選んだ。
俺が、選んだのだ。
「うっ」
胃がむかむかする。自分の中にあるモノを全て吐き出したい。
俺は嗤い続ける彼女を置いて部屋を後にする。
血の匂いと、彼女の嗤い声が聞こえない場所を探し、近くの部屋に駆け寄る。ドアノブをひねればあっさりと扉が開いたため、俺はそのままトイレになだれ込み、胃の中のモノをぶちまけた。
後悔、しているのだろうか。しているのだろう。
でも、後悔する権利なんてない。選んだのは俺自身なのだから。ただ、それでも、しばらくは、彼女の顔を見たくなかった。
いったいどれだけの時間、ぼんやりとトイレで時間を潰していたのか。
いい加減戻らないと。ふらつく体を必死に動かし、アリスさんの死体と、嗤うイリスさんの待つ部屋に向かう。
扉は開いたまま。なのにイリスさんの嗤い声は聞こえない。流石に彼女も疲れて正気に戻ってくれたのかもしれない。
そうだったらいい。
そんなことを考えながら部屋を覗き込み、絶句した。
「………………は?」
アリスさんの死体。その上に重なるようにして、胸をナイフで貫かれ絶命したイリスさんがいた。
意味が分からず、俺は呆然と立ち尽くす。
いつまでも、いつまでも。
もし近くに彼女たちを殺した殺人犯が隠れていたのなら、容易く俺のことも殺せただろう。
しかし運の悪いことに、殺人犯はすでにここから立ち去っていたようだ。
静止した時間。
動かしたのは、佐久間さんの声だった。
何度も必死に名前を呼ばれている。それは分かる、しかし反応はできない。
やがて俺が動くのを諦めたのか、佐久間さんは無理やり手をひいて別の部屋に連れ込んだ。
そこでも何かたくさん声をかけられた気がするが、よく覚えていない。気づいた時には佐久間さんの姿はなく、部屋には俺一人だけになっていた。




