(11) あの時で終わらなかったんだ
居酒屋バイトには少し変化があった。
正式にアルバイト雇用となった俺の給料は、四月末に20日までの分が口座に振り込まれた。
口座振込で給料を受け取ったのは初めてのことだ。
あ、銀行口座はね、持ってたんだよ、小学生の時から。
あらためて通帳に刻まれた金額を見ると、自分の時間と体力が数値に変換されたことが不思議な感じがする。これまでは労働の対価というより、現金をもらうための口実に作業していたように思えてくる。
四月は三週間分だったが、週に五日は入っていたから、そこそこまとまった金額だった。
ちなみにツキカガは日曜定休。あと週に一日は店の忙しさやシフトの様子を見て休んでいる。オーナーから「明日は来なくていい」と言われることも稀にある。
接客バイトのお姉さま達が以前より気軽に声をかけてくれるようになったのも変化の一つだ。サプライズのお礼に配ったクッキーの評判も上々だった。
しかし何よりの変化は自転車通勤だ。
ツキカガは隣の蜷坂市の中心的な繁華街にある。夜遅くになると電車の本数が極端に減るから、いつも発車時刻を気にしていたのだが、それから解放されたのは大きい。たとえ終電を逃しても、店の和室で寝なくてすむ。もっとも、そんな経験は一度しかないのだが。
「おつかれさまです、失礼します。」
と挨拶をして、夜の街に自転車を漕ぎ出す。
県内では大都市、といっても十分も走ると、静かな住宅地になる。
そこからは車の通行量も激減するから、快適な深夜サイクリングが楽しめる。
五月の夜の空気は生暖かく、頬を撫でていく。
20分ほどで住宅密集地が終わり、農作地帯と境界線上に建つ自宅アパートに到着。あとはシャワーを浴びて就寝だ。
と思っていたのが、この日は事情が違った。
アパートの前に人影があった。シルエットから女性なのはわかったが、その影が声を掛けてきたのである。
「立花君…。」
「えっ、宮原さん?」
立っていた人影は結衣だった。
「どうした、こんな夜更けに。」
アパートだから外に小さな灯りはあるのだが、その周りは闇だ。
たしか、結衣の家は歩いて5分ほど、莉央や寺林よりは少し近いのだが、それでももう真夜中に近い時刻だ。
「ちょっと相談があって。」
こんな時間に待ち構えていたほどだから、明日にはできない、緊急度の高い相談なのだろう。
「わかったけど、ちょっと場所を移そうか。」
このあたりは静かだから少しの話し声でもアパートの住人の迷惑になる。もちろん、うちの両親にも聞こえる恐れがある。別にやましいことをするわけじゃないが。
結衣はこくんと頷いた。いつにも増してしおらしい。
あまり人目につくのもなんだが、かと言ってひと気がない場所に連れこむわけにもいかない。本人に聞いてみよう。
「人目につかない場所のほうがいいか?ひと気のない所は不安か?」
「人目につかない方がいい、かな。」
「わかった。」
俺は県道を渡って、農作地帯側の小道に結衣を案内した。
農道に沿って農業用水の小川があって、農道と川の間にガードレールが設置されている。公民館と神社のそばなら、近くに民家はない。
ガードレールは比較的新しく、このあたりでひと気のない場所の中では清潔感がある。ただ目の前にいる人の顔も判別できないほど、暗い。ここならばたとえ同級生が前を通ったとしても俺達を特定できないだろう。
俺は川沿いのガードレールに寄りかかった。
「ここでどう?」
暗くてよくわからないが、雰囲気としては頷いているようだ。
あいにく今夜は曇っていて月がない。それでも雲の上には月があるようで、少しすると目が慣れてきた。結衣は小道の真ん中に立っている。
そうか、俺は何度か来たことがあるから、どんな場所かわかるけど、宮原さんは初めてだから戸惑うよな。
「えっと、ここは小さな川に沿った農道で、川沿いにガードレールがある。道の反対側は田んぼになってるから、ガードレールにくっついたほうがいい。」
「うん、わかった。」
結衣は手探りでまず俺の腕に触れ、隣に並ぶようにしてガードレールに腰を持たせかけた。
「あ、でもやっぱりちょっと怖いか?」
「ううん、平気。平気だけど、腕に触ったままでいい?」
手探りで探し当てた俺の腕に、力なく手を置いたままである。
「ああ。で、どうした?」
「うん、あの、立花君と私が入学式の日に会った時のこと覚えてる?」
「高野さんに引っ張られてきた時のこと?『友達見つけてダッシュ作戦』だっけ?」
「うん、そんな感じの脱出作戦。」
結衣の声が和らいだ。
「あの時、莉央が言ったことも覚えてる?」
「なんか部活の勧誘から逃げてきた、みたいなことだったか。」
「うん、そう。サッカー部のマネージャーに勧誘されていたんだけど、あの時で終わらなかったんだ。」
それはそうかもな。結衣のような可憐な美少女がピッチサイドにいてくれたら、厳しい局面でも頑張れそうだ。
「何度か、お誘いがあって、でも私も部活があるからお断りしてたの。」
「ああ、リア姫降臨だったな。」
「もう、冷やかさないで。」
「悪い悪い。それで?」
「うん。クラスにもサッカー部に入った男子が二人いるんだけど、ゴールデンウィークに恒例のしごき練習みたいなのがあったらしいのね。」
うちのクラスでもそんなこと言っている奴がいたな。サッカー部のことだったのか。
「今日の昼休み、その二人の男子が『どうしても部のマネージャーになってほしい』ってあらためて頼んできたの。」
「先輩から指令されてきた、みたいな感じか?」
「うん、そう、よくわかるね。」
後輩を困らせるような指令は先輩にとって最大の娯楽だ。大輝さんの顔が目に浮かぶ。
本人はそれほど本気でなくても、後輩にとってはきついものだよな。
「あらためて断ったんだけど、そしたら「オレ達が走らされる」って言うの。他の一年生達も一緒に。練習の後、グランド10周走らされる、って。私を連れてくるまで毎日だって。」
人質作戦か、なかなかに卑劣だ。
「どうしたらいいかな。」
最後はなんともシンプルなご相談ですこと。
「わかった、話はたしかに聞いた。でも対策は思いつかない。少し時間くれないか。」
「うん、でも…」
「わかってる、サッカー部な。まあ何日か走ってもらうかもしれないけど、いいトレーニングになるだろう。」
「そうかもしれないけど…なるべくなら」
自分のせいで、って思わされるのはイヤに決まってる。
「ああ。俺もなんだか少し、えーと、カチンときた。」
この前、結衣が言っていた台詞を引用する。結衣は力なく笑って頷いた。
「さ、帰ろう。送っていく。」
「うん、ありがとう。」
それから結衣を自宅前まで送っていった。
「ごめんね、立花君。夜中まで。」
「いや、いいよ、大丈夫。」
「話を聞いてくれてありがとう。少し落ち着いた。なんか私…押し潰されそうになってて…」
「ああ。」
女子はこういう話には弱いもんな。男同士なら「なんだそれ、ほっとけ」で済むことでも。
「それから、このこと…えっと、私が立花君に相談したってこと、莉央には黙っていてほしいんだ。」
最近、女子に口止めされることが多いな。俺には人の噂話をする趣味はないから、黙っていることには何の苦痛もない。
「ん、そうか、わかった。」
親友にも相談できないことだったわけね。そうだよな。高野さんに話したら、またどんな暴走をするかわかったもんじゃない。
親友に降りかかった災難には、彼女も同じ苦しみを覚えるはずだ。
「じゃあ、俺帰るわ、おやすみ。」
「うん…おやすみなさい。」
読んでいただきありがとうございます。応援よろしくお願いします。




