10 : 華
迷路攻略法の1つとして、左手法というものがある。壁に常に左手をつけた状態で前進する事でゴールまでの道を見つけるというものであり、千雪も知っていた。
ただそれはあくまで迷路の攻略法であり、千雪の今いる建物の内部でも通用するのかどうかまでは知らなかった。
右と左に別れた通路を見ながら、どちらへ進めば出口へと続く道なのかと彼女は考える。
視線を彷徨わせながら見下ろした先、石畳が敷き詰められた地につけた素足は熱を奪われて冷たくなっていた。
迷う時間などない、だが道を間違えて先程の場所へと戻ってしまっては元も子もない。
思考を巡らせている間にも後ろから足音が聞こえてきたことに気付き、千雪は慌てて足を進めた――左へと。
先程までいた部屋の中の絢爛な造りとは違い、質素ながらも堅牢な造りの通路を千雪は歩き続ける。見つけた階段を下りるその足取りに迷いはなかった。
現在地等を考えるほど、この建物に詳しくはない。そしてもし一度でも迷えばそのまま立ち止まってしまうだろう自身の弱さを彼女は知っていたからこそ、立ち止まれはしなかった。
真っ直ぐ前へ、前へと突き進むのみであった。
口を真一文字に結びながらも、これから先の行動へと思考を巡らせる。
この建物を出た後、近くにいる者へと助けを求めるべきだろう。……けれど、その人物が千雪を攫った人々と共謀者でないという保証はどこにもない。
だからといって、土地勘のない娘が誰にも場所を尋ねずに警察や大使館へと辿り着けると思える程、千雪は楽観的ではなかった。
街道に置いてある地図が読めればいいが、他国の地図記号に明るいわけでもなく、そもそもここがどこだかさえまだ分かってはいなかった。
ならば、地元の人に聞くしかないだろう。
建物から出た先の事ばかりを考えている千雪は、彼女の常識からは有り得ない事だからこそ、その可能性から目を逸らしていた。気付く事はなかった。
ここが異世界の、宮廷城である事など。防衛の機能をもった施設であり、更には国の頂点が坐する要の城である以上、この場所が娘1人が簡単に出入り出来る場所ではない事など、その時の彼女は知る由もなかった。
時折通り過ぎる人々を隠れる事でやり過ごしながら出口を探すが、人の気配が濃厚な場所に気付く度に遠ざかっていった結果、千雪は礼拝堂へと辿り着いていた。
先程までざわめいていた空気の城とは違い、そこはどこまでも張り詰めた静謐な空気が場を支配していた。世界から隔絶されたかのような、厳かな空間。すべてを刺すように冷たく拒むような場を千雪は歩いていく。
窓がはめ込まれた壁面と円天井から進むと、次第に天井に画が描かれている事に気付いた。題材は建国記であり、名のある画家によって描かれたものであった。注視していればその画の美しさに感嘆したのかもしれないが、千雪はそれどころではなくちらりと横目で見たのみだった。
更に進んでいけば、一番奥の突当りに女性が俯いて跪いて何かを祈っている姿を見つける。
気付いた千雪は避けようと身を翻したが遅く、気配に気付いた女性が顔を上げて千雪を見つける方が早かった。
顔を上げた女性を見た千雪は、息を呑んだ。
女は美しかった。彼女は遠く気付くことはなかったが、眦に涙を浮かべるその姿さえも美しかった。
遠くからの為に顔の造詣は千雪には判別できないが、立ち上がる所作は優雅であり、凛とした空気を身に纏っているその姿は、千雪とは一線を画していた。
艶やかな白に近い金の髪は頭上で華やかに纏められていて、絢爛に飾られた薄藍のドレスを身に纏っているのは豊満な肢体。
大輪の花とまではいかないが、白い花が匂い立つような女性だった。
「ろおわ?」
高らかに何かを問われているのだろうそれに返す言葉を千雪は持たなかった。逆に問いかける術も持たなかった。
身構えたまま足を少しずつ後ろへと下げていく千雪を見た女性は、再度問いかける。
「貴方う、ろおわ? あれあ、わはがしゅる」
更に一歩、千雪は後ずさる。
「髪うぁディーヴ――しぇる」
さして声は大きくはないが、透き通るような声は礼拝堂によく通った。
「……さお、お前が」
感情の篭っていなかった声に、感情が含まれる。憐憫と、拒絶。初めて出逢った相手に向ける感情ではないそれをぶつけられた千雪は眉を顰めた。一体何を言いたくて、何を言っているのか。ところどころ分かる単語では彼女の告げたい内容など理解出来るはずもなかった。
けれど女性が千雪の表情を気にすることはなく、己の背後へと声を掛けた。
そこで初めて他にも人がいることに気付いた千雪は逃げようとするが遅く、周りを黒の軍服を着た集団に囲まれてしまった。
一定の距離を持って囲んできた周囲に身を硬くさせる千雪を余所に、集団の中にいたヴィンセントが女性へと何かを話しかけていた。
「すーりゃ、あへあうぇお」
無言で頷いた女性が、黒の軍服の集団から数人を連れて出口へと向かう為に歩き出した。
途中、千雪の側を通りかかる。遠目でも美女だった女性は、やはり近づこうとも美女だった。その立ち振る舞いも優雅であり、まるで中世の映画の最中に画面から抜け出てきたかのような感慨を千雪に抱かせた。惜しむは、その表情の乏しさか。無表情なその顔はまるで氷のようだった。
女性が礼拝堂から去っていくと、ヴィンセントが千雪に近づく。
身構える少女を余所に、彼は告げた。
「てとぼる――戻る、お嬢」
肝心なところの意味の分かった千雪は、顔を引き攣らせた。