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友の場合

「あ゛……ぐぅ……」

 池の方に向けて、開け放たれた窓から、唯月(いつき)の声が聞こえて、レポートをまとめていた手が思わず止まる。

 俺しかいなくなっている研究室で、ペンが床に転がった音が、やけに大きく響く。

「唯月…」俺は友人の名前を嚙み締めて、窓へ近づき、視線を深夜の林の間をさまよう。彼はすぐそこにいるのに、名前を呼んでも答えてくれなくて。そんな、苦しそうな声だけが彼の喉を削る。

 本当は一刻も早く彼を清潔なところに連れて行きたいのに、泥まみれの方が、彼は落ち着くのだろう。本当に、もどかしいことこの上ない。

 彼は立派な鳴き声を出しているつもりなのだろうが、俺の耳に届くのは、心臓が痛くなるほどの、呻き声だった。

 人間の体でカエルになろうとして、おばさんから預けた一億の手切れ金がなかったら、彼を生かせることもできなかったのだろう。今思い返しても、おばさんの態度に腹が煮えくり返る。

 それでもその人は、唯月にとっては、優しくて、頭がよくて、寂しがり屋で世界一綺麗な、たった一人の母親なのだから、すくえない。


 ***


 思い出すのは、中学校の冬の日。帰宅して家族とたわいもない話をしていたら、隣の彼んちから響くおばさんのヒステリックな怒鳴り声が、俺んちのリビングにも届いた。そしてコンビニに行こうと玄関ドアを開けると、唯月は長袖とはいえ薄手の部屋着だけで外で立っていた。

 俺は急いで自分のからし色のコートを脱いで彼にかけるが、彼はいつものような無表情で俺の顔を見つめていたから心配になって彼に問いかけたんだ。

「唯月、寒くないか?」と。

 俺の問いかけに、今の唯月は片目ずつゆっくりと瞬きして、視線は俺の口まわりで少し震え、「ぐぅ」と鳴った。

「寒いだろう。すぐにオイルを塗るね。」俺は必死に熱い目元をこらえて、カバンから滅菌と撥水効果のあるオイルを取り出す。これがあれば、唯月はまだしばらく、生きられる。

「う゛う゛……」

 唯月はまるで、俺の相槌を打っているように鳴く。本当に、俺の言葉がわかるのかという考えが一瞬よぎる。心なしか、彼は俺のことを認識していると、自惚れそうになる。

「唯月?俺に、返事してるのか?本当に?」口からは、うれしくて、でも弱弱しく、縋りつくように彼に聞いてしまう。

 水が、頬をつたって地面に落ちる。

 唯月の目はその水を追って草に止まる。そして不思議そうに小首をかしげる。

「大丈夫だ、唯月。君が幸せならそれで。」俺はぎこちなく笑っているのだろう。しかしこれは本心だ。

 僕は震える手を彼の顔に近づけ、その冷たい頬に一瞬触れて、しかし心の重力に耐えられなくて、落ちる。


 ***


 唯月の母親が訪れてきた時のことは、絶対に忘れもしない。

 あの人は、仕事用のお高そうな正装を纏って、いつものように神経質な硬い表情をしていた。兄貴はにこやかに話しかけたが、俺にはできないんだな。するつもりもないが。

「藤城さん、唯月君の様子をご覧になりますか?」と兄貴があの人に問いかけるが、あの人はただ、背筋をぴんと伸ばして、俺たちの方を向いていた。唯月がいる池の方へは、見向きもしなかった。

「いいえ。あれはもう、私の息子ではないわ」と彼女は冷たく硬い声で言い放つ「一応、まだ未成年だから、藤宮さん兄弟のところで面倒を見てくれたら、これくらいの金額をお預けしたいのだけれど、いかがでしょうか?」

 あの人は一冊の通帳を俺たちの方に向けると、そこには俺が見たことなかった数字で、驚きよりも前に、彼女はその数字だけで唯月を捨てるんだという怒りの方が、俺の肺を炙る。

 あの人は最後まで、一度も唯月のいる方へ視線を向けなかった。そのことに、俺は何もできなくて、ただただ怒りに脳を焼かれているだけだった。

 そんな、数ヶ月前のことを考えながら、リビングの隅に積み上げていた段ボールを眺める。それは、唯月の家から引っ越してきた、人間の唯月の荷物だ。制服、私服、寝間着、教科書、参考書、文房具、お気に入りの専門書、文庫本とか……今の唯月にはもういらないものばかりだった。でもそれを処分することぼできなくて、かといって開けて整頓することもできなくて、そのままにしてしまった。

 いつか、唯月が戻ってきてくれたらと、自分も信じられない希望だけで、それらはそこで巣食っていた。


「ただいまーって、また段ボール見てんか。飯はちゃんと食ってんか?段ボールはおいしくないぞ?」

 どれくらいそのまま動かないでいたのだろうか、兄貴が玄関から発する間抜けな声が聞こえてきて、そしてリビングに入って俺にそう言った。

「うるせぇな……ちゃんと栄養バランスも取ってるよ」俺はぼさぼさの髪をかき上げながら、兄貴に視線をぶつけると、その手には有名なファーストフード店のフライドチキンの箱が掲げていた。

「上司のおごりなんだ。一緒に食べないか?コーラもあるんだ」と兄貴は言いながら、もう片方の手をあげて、そこにある2Lのコーラを見せる。まじで言ってんのか。俺ら二人だけだぞ?

「俺がまだ成長期とはいえ、アラサーのおっさんと二人で6人分の肉を食えってか?胃もたれするぞ。」

「まだアラサーじゃないわ。ぴちぴちの25歳少年だぞ」

 兄技は反論するが、この世にどこが25歳少年というワードを使う人がいるのか。頭はいいのに脳みそが足りない兄貴だけじゃないのか。

 でも肉だけでもなんか嫌だな。野菜スープは冷蔵庫にあったはず。しょうがない、温めるか。誰かと食べる夕食は久しぶりだ。

ちなみに兄貴の名前は昴といいます。LINEの名前は「SUBARU 」になっております。

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