母の場合
ずっと、夢を見ていた。
私を愛してくれる夫がいて、私たちを慕っている子供がいて、私も、両親みたいな人じゃなくて、ただただ幸せに生きていく夢を、私は見ていたの。
あの人は、最初は私にとっても優しかったわ。日本人ばかりの社会で、あの人はそんな目立つ外見をしていてもなんとか生きてきた勇気があって、いつも同情な視線しかくれない周りに比べて、ありのままの私を見てくれた気がして、うれしくて、愛してるよと言われて、あの人の子供を身ごもって、これ以上の幸せはもうないのだと思ってしまったわ。
でも、その子の存在を彼に言ったら、「そうか」とだけ言って、あれ以来、連絡も取れなくなってしまった。
何か仕事でトラブルでもあったのかと、はじめは思っていたの。
しかし数日、数週間、数か月たって、さすがにその思いも消えてしまった。
私は捨てられたのだと、そう認めないといけなかった。それでも、この子をどうしても手放したくなかった。この子は……この子だけは、私を愛してくれるのだろうと、願ってしまった。
生まれてきた子は、とっても愛おしくて、かわいらしかった。
私ともあの人とも似ていて、いいとこ取りの、本当に本当に、愛らしい私の子だった。
嗚呼、私の、私だけの唯月。愛しているよ。いつまでも、どこまでも……この愛はきっと変わらないのだと、信じていた。
初めて私の声に反応してくれた日。初めて私と目が合った日。初めて笑った日。初めてお話しした日。初めて私を呼んだ日。初めて寝返りを打った日。初めてそのムチムチな足で立った日。初めてハイハイした日。初めて歩いた日。初めて手を繋いで出かけた日。初めて私のほっぺにキスしてくれた日。初めてアイスクリームを食べた日。幼稚園に行った日。初めて私にカードをくれた日。初めて舞台に上がった日。私を見て顔を輝かせて手を振ってくれた日。初めて馬に乗った日。初めて私にケーキを作ろうとした日。小学校に入った日。運動会ですごく頑張った日。初めて私にクッキーを焼いてくれた日……アルバムをめくるように、一つ一つが、今でも色鮮やかに、そこに残っているのに。
私は、唯月を愛すれば愛するほど、私を壊した母さんの毒が、陰に潜んで、私に近づいてくる。唯月が寝ているときに、私たちが絵本を読んでいるときに、一緒にお風呂に入っているときに、唯月に食べさせているときに、少しずつ、私を蝕む。
やめて。私はただ、あの人の代わりではなく、本当に唯月のことを愛しているのに。
初めて、唯月の怯えた目を見た日。
気づけば、私はなんてことを口走ったのだろう。しかも、もう一度や二度じゃない。
違うんだ。違うんだ。私はそんなことを言いたいわけじゃないんだ……!
「出てって。」
これ以上、唯月を私のいるところにはいさせられない。
「今すぐ、出てって。」
早く唯月と離れないと。私も、この子も……
唯月はすごく心配そうな目で私を見つめていて、しかし私に何かを言うこともなく、玄関に向かった。
……え!?そのままで?上着は?
私は床に蹲ったまま、呆然と唯月の背中が消えた玄関を見ていた。手足はまだ痺れていて、肺と喉には何か硬いものが詰まっているようで声も出せずに、息も上手くできない。
どうしよう。外には雪が積もっている。このままじゃあ、唯月は体を壊してしまう。早く動かないと。
でも、私が行ってもなにになる?
私なんて、唯月を傷つけるだけなのに。
やっと動けるようになって、私はおぼつかない足取りて玄関に立つと、外に話し声が聞こえた。
「唯月、寒くないか」
隣の、藤宮家の弟くんの声だった。彼は唯月と同じクラスで、確か名前は叶真って言うのかな。彼の家は私と似て片親だったからか、よく唯月に気をかけている優しい男の子だった。
玄関ドアを少し開けると、叶真くんが唯月の肩ににコートを掛けていた。白い世界の中に2人だけの男の子。陽の光を反射した芥子色が目に刺さって、喉の奥が焼けて苦しくなるほどに、暖かく感じた。
藤宮家のお母さんが亡くなられた。働きすぎて、体を壊してしまったらしい。お兄ちゃんの昴くんが名門大学を卒業して、隣県の大手会社でエンジニアとして働き始めて、唯月と叶真くんが高校に上がった矢先に、そんな訃報が入った。
叶真くんにも何かをしてあげたいのだけれど、私が誰かを愛することは、私が誰かを傷つけてしまうのと同義だ。私には、優香さんのようにはなれない。
ただ、唯月にいつもより少し多めのお小遣いを渡して、2人が何か美味しいものを食べてくれたらと、心の中で祈るだけだった。
「玲奈さんが唯月くんのことをとっても愛しているのはわかるわ。でもどうか、自分を追い詰めないでください。何かあったら私にも行ってくれると嬉しいわ。片親同士、一緒に頑張りましょう。」
「玲奈さんは少し真面目すぎるから、ちょっと羽目を外しちゃってもいいのよ?今日は私が唯月くんを見るから、少しカフェで休んだらどうかしら?」
「私も玲奈さんのようになりたいなぁ。綺麗で、かっこよくで、頭もいいし、唯月くんはいつも『僕の母さんは世界一綺麗なんだ』って言ってたよ。」
「玲奈さん、少し、お願いがあるの……昴と叶真には内緒にしてね……」
優香さんの声が、私の支えだった。いつも向けてくれた柔らかい笑顔が憧れだった。2人の男の子がいる家庭を支えるのが大変だろうと援助を申し出たのに、「ありがとう。でも昴もバイトで頑張ってくれているし、私たちでも案外上手くやっているのよ。そのお金は唯月くんに美味しいものを食べさせてあげてね。」と断った時も、すごく、すごく、胸が痛くて、暖かかった。
私も、彼女のようになりたかったよ。
私が、彼女のような母親になれたらいいのに。
唯月が高校二年生の秋に、仕事から家に帰ったら、息を切らした昴くんが私を呼び止めた。
「藤城さん!唯月くんがっ……唯月くんは今、大学の校内にいます。どうか、一緒に見に行ってください!お願いします。唯月くんを連れもどしてくださいっ」昴くんは切実そうに、涙を流しながら私に訴えた。心がざわつく。
唯月がどうしたのだろう。仕事用のカバンを持つ手に力が入らなくて、床に落としてしまった。
昴くんについて行って、タクシーで県内の大学につくと、彼は足早にさびれた林の方へ向かう。しかしその最中でも、何度も私に振り返って、ヒールで走る私を気遣う。本当に、優香さんに育てられた子だって、こんな時だけど思ってしまった。
そして池のほとりで目にした唯月は、高校の制服が泥にまみれ、無機質な目をどこかへ向けて、苦しそうに唸っていた。
私は……私が、唯月を壊してしまったと、その時気づかされた。私のせいで、私が愛している、私の唯月が、人を辞めるほどに壊れてしまったのだ。
でも、叶真くんなら……叶真くんなら、唯月を助けられるのかもしれない。
優香さんは、叶真くんは将来、医者になりたがっていると言っていた。叶真くんは頭もいいし、精神医科でもきっとできるのだろう。
私はもう、唯月にできることはないんだ。もう、唯月の母親じゃあないんだ。唯月を壊してしまった私が母親と名乗ってもしょうがないものね。
せめて、私にできる最期のことを、彼らにしてあげたいな。
私はまず、唯月のいる大学の医学部の精神医科にアポイントメントを取って、佐川教授との面会を取り付けた。
「藤宮叶真のことをご存じかと思いますが……彼はもしかしたら唯月を、助けられるかもしれません。頭もいいのですし、きっと、私なんかより、唯月をちゃんと愛してくれるのだと思います。どうか、ご助力を願えませんか」
私は深々と頭を下げると、老教授は優しい声で、頭をあげてと言った。
「叶真くんはいい子だね。わしの言葉もちゃんと聞き入れてくれるし、知識を貪欲に吸い取ってくれる。もちろんわしも手助けはするが、彼に任せれば安心じゃよ。」老教授の声に、目元が熱く感じる。
「お母さんもすごくお疲れのようで……もし、気になった時でいいし、話せるだけ話してみるのもいいからのう、こちらに電話をしてはどうじゃ。わしの友人じゃが、すごく気のいい爺さんでね、喜んで拝聴するよ。」
そう言って、教授は私に一つの名刺を渡してきた。
「ありがとう……ございます」私はそれを受け取って、視線を落とす。少し離れたところにある大学病院の精神科医らしい。
「わしにもおまえさんのような娘がおってね、頭がよくて周りによく頼られるのだけど、自分から誰かに悩みを伝えることだけが苦手でね……おぉ、もちろんわしに聞いてほしかったらこれもどうぞ」教授は自分の名刺も私に差し出した。
なんだか、昔祖父と話しているような、そんな懐かしい気持ちになってしまう。
私は痛くなっている鼻をこらえて、もう一度頭を下げると、教授室を出た。
あとは、唯月のために貯めていた金をすべて藤宮兄弟に渡そう。彼らならきっと、唯月のために使ってくれる。
これでカエルの話は終わりになります。ここまでお読みしていただいてありがとうございました。




