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カエルの場合

カエルの彼の場合です

ゲコ、ゲコ。


水のそばで、ぼくは独り鳴いている。


寒くなってきて、仲間たちはみんな眠りについた。気配すら感じられない。

ぼくだけが起きていて、泥の下で眠ることを許されない。

もう誰もいないのに、ぼくはただ、胸とのどに詰まっている重くて硬い塊を吐き出そうとして、強く鳴く。何かに急かされるように、何かを追い立てられるように、ぼくは鳴き続ける。

早く吐き出さないと。そうしないと、ぼくは、ぼくでいられなくなってしまう。


……ゲコ。


心を圧し潰しているものを絞り出すたびに、喉から鼻先にかけて一瞬だけ熱が走る。

痛みに耐えるように、深く、強く、瞼を閉じて開く。

すると、また涼しい風と共に、(おり)のようにおなかの底に溜まる。

ぼくはいつからカエルになったんだろう。うまく思い出せない。


ぼくはむかし、人間の雄の子だった。

優しくて、あたまがよくて、よく働く、でも少し寂しがりやで、世界一きれいな母さんがいた。母さんはいつもぼくを抱きしめて、頭を撫でて、「愛してるよ」と囁いてくれた。

でも、ぼくが「こうこうせい」になる前に、母さんは少し変わった。

きっと、ぼくが悪いことをしたせいだ。何を間違えたのかはわからない。

それでも母さんは、昔のようにぼくを抱きしめるし、耳元で優しく囁く。

その声が、ぼくの心を締め付けるような、喉の奥に棘だらけの虫が入ってきたような、そんな感覚に変わったのは、いつからなのかな。

ぼくがもっと「いい子」になれたら、母さんはあんなに寂しそうに、悲しそうにしなくなるのかな。

やっぱり、ぼくが悪かったんだ。こんな風になっちゃったけど、母さんに謝りたい。

こんなふがいない子で、申しわけない。


ゲコ。ゲコ。


風が吹いて、ぼやけていた景色が揺れる。その瞬間だけ、世界は鮮明な輪郭を取り戻す。

水面に散らされた、月の鋭い光。濃い色の草。淡い色の葉。

風が止むと、すべてがまた少し濃淡が違うだけの塊に溶けていく。

ぼくの世界は、ぼく独りだけ。


……。


風がないのに、茂みが動いた。そこには「温度」を持つものがある。

それは少し近づいては立ち止まり、また少し近づいては止まる。

それが動く時だけ、その形が強烈に網膜へ焼き付くけれど、静止した瞬間に、濃淡違う背景の中に消えてしまう。

なんだろう。ぼくと似た大きさ、似た形をした「それ」は。


「……、……?」


どうして、ぼくの前で、そんなに悲しく鳴くんだろう。

それはぼくの前で体を低くして、ぼくがその吐息を感じられる距離まで近づいて、また見えなくなった。けれど、皮膚が教えてくれている。湿り気を含んだ「熱」が、まだそこに留まっていることを。


ゲコ。


「それ」に敵意はない。ぼくに向けて伸ばされた前肢(まえあし)は、かすかに震えていた。その震えのせいで、僕の目には「それ」の形がよく見えてしまう。

これはきっと、ぼくを害するものではない。鼻孔をくすぐる匂いが、脳の霞に覆われた部分と共鳴している。これは、安全なものだ。


「……。……。」


「それ」の声が届くたび、ぼくの目が震え、鼻の奥が痛む。心も、何かに圧されている。喉が苦しい。


ゲコ……。


何を伝えたいのか、ぼく自身にもわからない。けれど、ぼくの喉にあるこの「塊」の苦しさを、知ってほしかった。


「……?……、……?……?」


不思議な鳴き声。嬉しいような、けれどひどく悲しいような。

声が漏れるたびに、動く口の形がはっきりと見える。見つめる目も、そこから零れ落ちる水の粒も見えた。

ゆっくりと、ぼくの目の横に触れようとする前肢が見えた。怖くはなかった。それは、ぼくを安らがせようとする振動を放っていた。ぼくと似た大きさと、似た形。そして、この動きを、ぼくは知っている気がする。


「……、……。…………。」


前肢の先が、ぼくの顔の横から、下へと滑っていく。

ああ、そうか。これは、もう一人のぼくなんだ。

ぼくは、そう思った。


---


それから、もう一つのぼくは時々ぼくのところにくる。

ぼくと一緒に泳いだり、ぼくに何か鳴いてきたり、ただただぼくの近くにいたりした。


もう一つのぼくが現れてから、ぼくは食べ物にあんまり困らなくなった。

それは奇妙な動きで、ぼくの目に焼き付く。

舌は出せないから、口を近づかせる。それが舌に触れるとひんやりしていて、なめらかで、抵抗なく喉から滑り落ちる。

もう一つのぼくは、ぼくがそれを食べると、嬉しく、しかし同時に胸がとげに刺されたように悲しく鳴く。ぼくには、その理由がわからない。


もう一つのぼくがよく鳴く声の中に、一つ、聞き覚えがありそうなものがある。

ぼくはまだそれを理解できないが、口を同じ形にして、三つの音を鳴る。三つとも違う音で、真ん中の音が鳴る時にだけ、舌らしきものが隙間から一瞬現れる。

なぜだろう。その鳴き声を聞くと、胸の中が冷たく焼かれて、何かに引っ張られているような感じがする。


「……。」


ぼくはまた鳴った。

眼の縁が震えて、口の端も小さく動く。そのぼくは、三つの音が一緒の鳴き声を、こわばった喉から力なく押し出しているように聞こえる。

ぼくの喉も苦しくなる。


ゲコ、ゲコゲコ。


ぼくはのどに詰まっているものを吐き出そうと、また鳴くと、もう一人の口の端はさらに激しく動いて、目から雨のように水がずっと落ちてくる。


ゲコ。


どうしたら、


ゲコゲ。


あの水が止むのかな。

それが落ちて、草が揺れて見える。

あの水が落ち続けると、胸がぎゅうとなって、喉が針に刺されている。

目元も、ひどく焼かれていた。


ゲッ……


でもぼくは、なにもできなくて、


もどかしい、な……

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