第六話 濃紅の水引
しばらくして運ばれてきたお膳を前に、私は思わず息を呑んだ。
これほどまでにお茶碗に高く盛られた、真っ白な炊き立てのご飯を、私はこれまでの人生で見たことがない。
一粒一粒が艶を帯び、立ち上る湯気まで眩しく見える。
ふわりと香るお味噌汁に、脂の乗った焼き魚。
彩り豊かな小鉢がいくつも添えられ、食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐった。
「お代わり用のお櫃も、こちらに置いておきますね」
「お代わり……!?」
お櫃の中には、まだたっぷりと白米が詰まっている。
その炊き立ての匂いに、お腹が切なくきゅうっと鳴った。
確かに、飢えを感じるほどには空腹だった。
けれど、箸を伸ばそうとするたびに、永太と琴の顔が脳裏をよぎる。
……あの子たちにも、この温かな食事をお腹いっぱい食べさせてあげたい。
「あの、朔夜は……?」
「朔夜様は、お嬢様のお召し替えが済み次第、お呼びするようにと承っております」
「わかりました……」
ひとまずは、食べて力をつけなければ。
着替えを済ませたら、朔夜に二人の行方を探せないか、真っ先に尋ねてみよう。
何をするにも、まずは自分の体が万全でなければ、何一つ動けないのだから。
お箸に手を伸ばし、温かいお茶碗を持つ。
湯気が頬を撫でる。
こんな切羽詰まった状況だというのに、ご飯の美味しさだけは驚くほど鮮明に伝わってきた。
甘くて、柔らかくて、喉の奥まで温かい。
これまで口にしたこともないような贅沢な味に、どこか罪悪感を覚えながらも、必死に箸を進めた。
「待っていてね、永太、琴……!」
食事を終えると、用意されていた衣へと袖を通す。
純白の着物と羽織に、深く鮮やかな紅色の袴。
色調こそ簡潔だが、生地の至る所に繊細な刺繍が施され、白い羽織には所々に袴と同じ紅の装飾が散らされていた。
袖口の飾りは、光を受けるたびに細くきらめく。
一目見ただけで、それが庶民の到底手の届かない、高価な品であることが分かる。
「……まるで、巫女のよう」
姿見に映る自分に気圧されながら、恐る恐る袖を通していく。
昨日まで泥にまみれた着物で畑に立っていた私が、こんな衣を身にまとっている。
現実味がなくて、鏡の中の自分が知らない娘のように見えた。
「着替えは済んだか」
羽織の扱いに手間取っていると、御簾の向こうから低い声が掛けられた。
「あ、あの、着方が難しくて……」
「入るぞ」
「装飾が、想像以上に複雑で……上手くいかなくて」
「寄こせ。……不慣れなのだろう」
朔夜に羽織を渡すと、ふわりとした重みと共に肩にかけられる。
襟から胸元にかけて結ぶ飾り紐。袖を通る紅の装飾。
至近距離に彼の体温を感じて、心臓がわずかばかり跳ねる。
「なんだか、水引みたいですね」
「水引か……。これは下級の鬼程度なら、爪すら通さずに済む」
大きな手が、私の肩先や手元を手際よく、丁寧に紐を通し、結び、飾っていく。
それは確かに、祝いの席で見る水引の細工のようで、美しくもどこか厳かだった。
武骨な指先が触れるたび、布越しなのに、その熱が伝わってくる気がする。
「飾りもすべて、呪詛を込めた護符だ」
最後の紐が結ばれると、私とこの人との間に流れる目に見えない何かが、ぴたりと繋がったような錯覚に陥った。
もう、ただ守られるだけの村娘ではいられないのだと、身体のどこかで悟る。
「先ほども言った。お前は俺の番だ。今後は、鬼狩りの場に連れて行くこともあるだろう」
「鬼狩りの……」
初めて鬼に襲われ、彼に救われた夜の光景を思い出す。
隣の村が業火に包まれ、無数の人々が逃げ惑い、化け物に蹂躙されたあの地獄。
あのような場所に、また私が。
指先が、無意識に羽織の袖口を握りしめる。
「だが、俺が守る。お前には傷一つ、決してつけさせないと約束しよう」
それは、静かな誓いのように私の胸に響いた。
私への言葉なのか、それとも、自分自身へ言い聞かせているのか。
それはまだ解らないけれど。
私はそのまっすぐな瞳を見つめ返した。
感謝を伝えようと口を開きかけた、その時。
外の廊下から、激しい憤怒を孕んだ足音が近づいてきた。
「朔夜さんっ!!」
御簾を荒々しく捲って現れたのは、目の前の男によく似た面影を持つ女性。
彼女は朔夜の姿を認めるや否や、迷いのない足取りで一直線に詰め寄る。
大きく右手を振りかぶったかと思うと、一瞬の躊躇もなく、朔夜の頬へ振り下ろされた。
バチンッと乾いた音が、静まり返った室内に響く。
「っ……!」
「ちょっと……!いきなり何をするんですか!」
「……いい、下がっていろ」
「でも……!」
手を上げた彼女は、ひどく興奮した様子で肩を上下させ、剥き出しの憎悪を瞳に湛えていた。
きつく握りしめられた指先が、まだ震えている。
「ふーっ……、ふーっ……!」
「……本日はどうされましたか、母上」
「えっ!?お母様……!?」
確かに面影はある。
けれど、実の息子をこれほどの形相で睨むなんて。
昨日までの私なら、きっと何も言えずに俯いていただけだ。
けれど今は、朔夜の頬に残った痛々しい赤みと、お母様を交互に見つめる。
「このっ……!いよいよもって、本物の化け物に成り果てるとは!!」
化け物……。
自分の息子に向かって、なんて酷いことを。
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
「待ってください、朔夜は化け物なんかじゃ……」
堪り兼ねて言いかけた私に、キッと鋭い眼差しが向けられた。
それだけで、胸の奥を刃で撫でられたように息が詰まる。
「あなたのせいですわ!!この子が、救いようのない化け物になったのは!!!」
「私の、せい……?」
「そうですわ!番さえいなければ、まだ人の血を知らずにいられたのに……!人の尊厳を保ったまま、死なせてあげられたのに!!!」
何を言っているのか、理解が追いつかない。
朔夜はどう見ても人間だ。
冷たい言葉はあっても、その手には確かな熱があった。
乱暴で、不器用で、けれど私を庇って血を流した人。
少なくとも、私にはただ一人の人間にしか見えない。
「人の生き血を啜って命を繋ぐ、生き汚い化け物に成り下がって!どれほどわたくしを不幸にしたら気が済むの!!」
「落ち着いてください、母上。もう、その辺りで」
一歩、朔夜が前に進み出ると、彼の母は怯えたように一歩後ずさった。
その反応に、胸がひやりと冷える。
実の母でさえ、この人を恐れているのだろうか。
「くっ……!」
「母上。勘違いしてはいけません。彼女は——ただの、被害者だ」
その声は、どこまでも静かで。
そして、触れれば壊れてしまいそうなほど、悲しい色を帯びていた。
被害者?
……私は被害者だなんて、微塵も思っていないのに。
ただ、絶望の淵から救い上げられ、命を助けてもらっただけ。
それなのに、初対面の人が勝手に加害者と被害者の枠に当てはめ、断罪しようとする。
その身勝手な決めつけに、私はただ戸惑うしかない。
「……私も彼女も、昨晩戻ったばかりです。母上、お引き取りを」
なおも罵声を浴びせようとするお母様を、朔夜は冷徹なまでの静けさで制し、部屋から連れ出していく。
私はその光景を、ただ呆然と立ち尽くして見つめることしかできなかった。
座ることも忘れ、石のように固まっていた私のもとへ、やがて朔夜が戻ってくる。
「……不快な思いをさせたな」
なんと声をかければよいのか。
聞きたいことは山ほどある。
けれど、今彼に贈るべき言葉は、安っぽい慰めなどではない気がした。
鉄の仮面のように無表情を貫く彼の瞳の奥に、私は確かに、深い泥濘のような哀しみを見たから。
「吸ってください!いくらでも、私の血を……!」
衝動のまま、朔夜の首元に腕を回すと、強引に自分の首筋へと引き寄せる。
彼の肩が、ほんのわずかに強張るけど、それでも離さなかった。
私は被害者ではない。
そして、この人も加害者などではない。
誰に脅迫されたわけでもない。懇願されてもいない。
私自身の意志で、この人に命の一部を分かち合うと決めたのだから。
「私が、絶対に貴方を鬼になどさせません!貴方は、私と共に、一人の人間として生きるんです……!」
抱きしめたその身体は、戦う男そのもの。
想像していたよりもずっと大きく、熱く、力強い。
なのに、どこか痛々しい。
抱きしめているはずなのに、いつの間にか私の方が、彼の大きな存在感に抱きしめられているような——そんな、不思議な包容感に包まれていた。
「……阿呆。俺が誰だと思っている。鬼狩りの一番隊隊長だぞ」
「むっ。それが何だというんですか。隊長であっても、人間でしょう?」
「そうだな。まずは、鬼狩りと番の関係について、一から学んでもらう必要がありそうだな」
不意に彼の手が私の腕に添えられ、身体をそっと離した。
離れた途端、首筋に残る熱が、やけにはっきりと意識してしまう。
「あ、あのっ!私の家族がどうなったのか知りたいんです。知る方法はありますか?」
「お前、独りじゃなかったのか?」
「……その、家族は、先に逃げてもらっていて……」
「俺は、今夜から任務で数日間、皇都を離れる」
「え!?……私は、どうすれば?」
「鬼省庁の庁舎へ話を通してある。明朝、向かうといい。家族のことも聞けるはずだ」
「あの、それもですけど、先ほど、鬼狩りの場にも連れて行くって……!」
「ああ。だが、今回は番を必要とするほどの鬼ではない。番は、留守番だ」
留守番。
その言葉に、どこかで安堵している自分に気づく。
いけない。
たった今、鬼にさせないと言い切ったばかりなのに。
こんな逃げ腰では、鬼と戦う彼の番など到底務まらない。
「でも、本当に大丈夫ですか?その、怪我とか……」
「舐めるなよ。俺は、強い」
そう言って、彼は子どもをあやすように、私のおでこを指先でぴん、と弾いた。
「っ!痛っ……!」
軽い痛みなのに、妙に胸まで響く。
強い。
確かに、この人は強いのだろう。
あの日、月光の下で迷いなく鬼を斬り伏せたあの光景は、今も私の網膜に鮮烈に焼き付いている。
目で追うこともできないほどの速さのまま、一瞬で鬼を斬り伏せていた。
それでも——あの日、私を庇って深手を負ったのも、また事実なのだ。
これから先。
戦地へと向かうこの人の背中を、私は幾度、こうして見送ることになるのだろう。
「そろそろ、向かう」
「あ、私もお見送りに……」
「わざわざ不要だと言っただろう」
「でも。『行ってらっしゃい』くらい、言わせてください」
「……そうか」
玄関まで、彼の後を追う。
部屋の設えから察してはいたが、ここは想像を絶する広壮な屋敷だった。
長い廊下の先にはまた別の廊下が続き、磨き込まれた床に行灯の明かりが淡く揺れている。
どれほど多くの部屋を通り過ぎただろう。
玄関の壮大さと、そこに居並ぶ使用人たちの多さに、私は圧倒されるばかり。
不要だと言いつつ、玄関には多くの人が集まっていた。
きっと彼らも、言葉には出さずとも朔夜の身を案じているに違いない。
誰も大きな声は出さない。
無骨な軍靴を履く朔夜の後ろを、私は草履を履いて慌てて追いかけた。
番になった影響なのだろうか。
まだ出会って間もないというのに、この人と離れることに、胸が締め付けられるような不安を覚える。
こんな落ち着かない心地になるくらいなら、いっそどこへでも連れて行ってほしい。
そんな甘えが、ふと胸をかすめる。
けれど、私を守ると言ったこの人は、きっと本当に必要な時以外、私を危険な場へは立たせないのだろう。
「行ってらっしゃい。気を付けてください」
「……」
「……?どうかしましたか?」
「……見送りは不要だと言ったが」
漆黒の外套が、夜風に揺れる。
朔夜は制帽を深く被り直し、こちらを振り返ることなく、独り言のように言葉を紡いだ。
「——悪くない、気がした」
「……なら、『お帰りなさい』も言わせてくださいね」
「ああ」
短い返事だったけれど、その一音だけで、胸の奥に灯がともる。
私が帰りを待つことを、この人は拒まなかった。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
少しだけ、息がしやすくなる。
短く一言だけ答えて、彼は門の外へと足を踏み出した。
門の向こうには、同じ深紅と黒の制服を纏った隊士たちが、整然と隊長を待ち構えていた。
おそらく、彼が率いる一番隊の人たちなのだろう。
朔夜が先頭に立つと、空気が変わった。
先ほどまで私の額を弾いていた人と、同じ人とは思えない。
誰もがその背に従い、闇の中へ進んでいく。
そのまま、朔夜は一度も後ろを振り返ることなく闇へと消え、バタン、と重厚な音を立てて門が閉ざされた。
「ただ待つだけというのは、想像以上に……辛いかも」
誰に聞かせるでもなく。
ぽつりと零した独白は、冷たい風と共に月夜の静寂へと紛れ、消えていった。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
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