第五話 目覚めれば、鬼狩りの番
『姉上!!姉上!!!』
……この記憶は、誰のものなのだろう。
『朔夜。忘れなさい。決して、復讐などと考えるな』
幼い少年の、張り裂けんばかりの哀切が、私の内側へ直接流れ込んでくる。
目の前で、掛け替えのない存在を失った。
守りたかった。
けれど、守れなかった。
『どうして……。どうして、忘れられるものか……。姉上……っ!』
抱きしめてあげたいのに、腕が虚空を掻くだけで届かない。
どれほど必死に指先を伸ばしても、その幻影に触れることさえ叶わない。
ただ、幼い少年の胸を焼き尽くすような後悔だけが、私の体の奥へ流れ込んでくる。
『絶対に、許さない。俺が、すべてこの手で殺してやる……!』
その声に宿る憎しみが、あまりにも痛かった。
誰かを憎むというより、何もできなかった自分自身を、血が滲むほど責め続けているようで。
混濁した意識が、ゆるやかに覚めていく。
ふと、自分の目尻を熱い滴が伝い、枕を濡らしていることに気づいた。
あまりにも悲しく、あまりにも切ない。
胸を締め付けるような痛みが、現実の体温を奪っていく。
重い体を起こすと、そこがこれまで見たこともないような、上質な絹の寝具の上であることに気が付く。
肌に触れる布は信じられないほど滑らかで、私の知る薄い布団とはまるで違う。
一瞬、自分がまだ夢の中にいるのかと思った。
「目が覚めたか」
低い声が部屋の奥から聞こえる。
部屋を仕切る御簾を、荒々しい手つきで跳ね除けて入ってきた影。
あの凄絶な夜、私を死の淵から救い上げた男が、どさりと音を立てて寝台の傍らに腰を下ろした。
「お前、名は。なんという」
「え……あ、梓。諏訪、梓です」
二人の間に、張り詰めたような沈黙が降りる。
聞きたいことは、山ほどあった。
ここはどこなのか、集落から逃げ出した人々は無事なのか。
そして何より、残してきた永太と琴のこと。
鬼の正体も、あの番という言葉の意味も。
何から口にすべきか迷い、私はまず、喉の奥に引っかかっていた言葉を絞り出した。
「あの、貴方の、お名前を——」
「お前な!!!何を考えている!!」
私の問いを、怒号が真っ向からねじ伏せた。
思わず肩が跳ねる。
「えっ?」
「いかに非常時であったとはいえ、向こう見ずにも程がある!鬼狩りの伴侶でもないのに。出会ったばかりの素性の知れぬ男に対し、よくも考えなしに……!」
「な……っ」
「まともな説明も聞かないまま、鬼狩りの番を引き受けるなど、正気の沙汰ではない!莫迦なのか?莫迦なのだろう!!」
必死だった。
助けられた恩を返したい、その一心だったのに。
胸の奥が、かっと熱くなる。
叱られていることが悔しいのではない。
あの場で彼を見捨てる選択など、私にはどうしてもできなかっただけ。
「目の前に、今にも死にそうな人がいて……。助けたいと思うのが、当然です!」
「それでも、踏み越えてはならぬ一線というものがあるだろう!」
「でしたら、貴方も同じでしょう!見ず知らずの私を、貴方もあの時、助けてくださったじゃないですか!?」
「……!」
言葉を失った彼を、私はじっと見据えた。
後悔などしていない。
私は、決して間違ったことはしていないはずだ。
もし、あの時に戻ったとしても。
私は、再び迷わず彼の苦しみを受け入れただろう。
「……先ほど、何を言いかけた」
気まずそうな沈黙を破り、彼が声を低めて尋ねてきた。
怒鳴った直後のせいか、その声にはまだ熱が残っている。
けれど、先ほどより少しだけ角が取れていた。
「貴方の、お名前を教えていただきたくて」
「……睦月、朔夜だ」
「朔夜、さん」
「朔夜でいい。睦月は、鬼狩り一番隊隊長としての、いわば称号のようなものだ」
「……鬼狩り。本当に、夢じゃないんだ……」
眠りに落ちる前の光景が、脳裏を掠める。
家族に棄てられ、異形の鬼に襲われた、あの絶望。
助けられ——そして、首筋を。
そっと、噛み痕の残る首筋に指を添えると、そこには微かな、けれど確かな熱が宿っていた。
指先でなぞっただけで、あの時の息遣いが蘇る。
甘美なまでの苦痛。
彼の腕の強さ。
牙が食い込むと同時に流れ込んできた、言葉にならない孤独。
私の体温が、じりじりと上昇していく。
「……痛むか」
伸ばされた彼の手が、私の首筋に添えられた手の上に、重なるように置かれた。
その大きな手は、驚くほど繊細な体温を帯びている。
刀を握る人の手なのに、触れ方は壊れ物に触れるそれだった。
「あ、いえ。痛みは、全く……」
「そうか……」
あまりの勢いで忘れていたけれど。
先ほど、彼は「鬼狩りの伴侶でもないのに」と言わなかっただろうか。
「あの……伴侶以外が番となったら、どうなるんですか?」
「……他の隊員は、便宜上そうしている者が多いというだけの話だ。決して、決まりではない」
「そうなんですね。……もし、朔夜さんに心に決めた御方がいらしたら、申し訳ないと思って」
「ぷっ……。くくっ、お前、まず気にするのはそこか?」
あ、笑った。
初めて出会った時は、鉄の面のような無表情。
次に見たのは、死線を彷徨う苦悶の表情。
そして、今の激昂。
そのどれとも違う、ほんの少しだけ緩んだ口元。
彼が見せた初めての柔らかな表情に、不意に鼓動が跳ねた。
「案ずるな。そのような存在は、俺にはいない」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
同時に、名状しがたい高揚感が込み上げた。
……嬉しいと、思ってしまったのだろうか。
会ったばかりの人に対して、そんなふうに胸を揺らすなど、あまりにもおかしいのに。
「あの、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「なんだ」
不可解な感情を誤魔化すように、先ほど見た幻影について口を開く。
「朔夜のお姉様は……鬼に、殺されたのですか?」
空気が、すっと冷えた。
彼の指先が、私の手の上でわずかに強張る。
「……なぜ、それを知っている」
「……申し訳ありません。眠っている間、誰かの記憶のようなものを見てしまって。……これも、番になったからなのでしょうか」
「……さあな。番を持つなど初めてのことだ。俺にもわからん」
やはり、あの夢は、彼の過去の記憶だったのだ。
軽々しく踏み込んではいけないものに触れてしまった。
そう思った途端、胸が小さく痛む。
「経緯はどうあれ、お前は俺の番だ」
そう告げる彼の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「この先、お前の命は俺のものだ。俺の知らぬところで、傷つくことも、死ぬことも断じて許さん。忘れるな」
言葉は乱暴で、傲慢でさえある。
けれど、その真意は、不器用なまでの守護の誓いに聞こえた。
私という存在を、決して手放さないという、彼なりの。
胸の奥で、また小さく鼓動が跳ねる。
「食事を持ってこさせる。食べ終えたら、支度を整えろ」
「支度、ですか?」
「詳しい話はその後だ。今は食え。顔色が悪すぎる」
そう言い残し、彼は振り返ることなく御簾の向こうへと消えていった。
乱暴な足音が遠ざかる。
その気配が消えても、首筋に重ねられた手の熱だけが、まだ残っている気がした。
静まり返った部屋に一人残され、私は再び、柔らかな布団に身を沈める。
「……豪華な部屋」
部屋には、仄かに沈香の薫りが漂い、御簾で守られた空間には、触れるだけでため息が出るような厚手の絹布が敷かれている。
几帳の向こうには磨き上げられた調度が並び、灯された行灯の明かりが、金具を淡く照らしていた。
誰かが着替えさせてくれたのであろう寝間着も、以前の私が着ていた継ぎ接ぎの着物より、ずっと上等で滑らかな肌触りだ。
温かい。
清潔で、静かで、恐ろしいほど守られた場所。
けれど、その安堵は長く続かなかった。
「永太……琴……ちゃんと逃げたかな……」
私が見捨てられたあの場に、二人の姿はなかった。
父たちが、せめてあの子たちだけは、凍える夜から救ってくれていると信じたい。
琴の小さな手。
泣き出すのを堪えていた永太の唇。
布団の中で「ずっといっしょ」と笑った声。
思い出した途端、喉の奥が詰まった。
そうでなければ、この温かな部屋で、私はまた、止まらない涙に溺れてしまいそうだったから。
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