第四話 私が、この人を助けます
彼は刀を深く地面に突き立て、全身の筋肉を強張らせながら、内側から食い破ろうとする何かに抗っているように見える。
歯を食いしばる音が、風の唸りの中でも聞こえた気がした。
動転して駆け寄ろうとした私の襟首を、別の隊士が掴み、強引に距離を取らされる。
「離れて!!近寄っちゃダメだ!!」
「隊長!!」
「早く!隊長が、呑まれる……っ!!」
「隊長……!これは、鬼の毒か……!」
駆け付けた数人の隊士たちが、次々に絶望に満ちた声を上げる。
先ほどまで鬼を斬り伏せていた人たちの顔から、血の気が引いていた。
それが、この異変の恐ろしさを何より物語っていた。
「隊長の番は!?」
「馬鹿を言え!隊長に番などいないだろう!!」
「しかし、このままでは隊長が……本物の鬼に、堕ちてしまう!!!」
鬼に……?
半人半鬼という噂は、本当だったのだ。
まさか、この人が人の心を失い、あの化け物になってしまうというの。
私を……名前すら知らない私を、庇って傷を負ったせいで……?
隊長と呼ばれたその人。
きっと、多くの命を背負い、この国を護るために無くてはならない人なのだろう。
隊士たちが縋るように彼を見つめる理由が、私にも少しだけ分かる。
そして何より——今、この窮地で彼がいなくなったら、どれほどの損失なのだろう。
「あの……その番とやらは、私でも務まりますか?」
「は……?いや、ですが……」
「私にできることなら、何でもします」
彼らの切羽詰まった口振りからすれば、番と呼ばれる存在がいれば、彼をあの状態から救い出せる。
ならば、助けてもらった私が、今ここでやらなければならないことは、一つしかない。
怖くないわけではない。
足は震えているし、胸の奥は今にも潰れそうだ。
できるなら、今すぐにでも逃げ出したい。
それでも、私を庇って血を流すこの人を、ただ見ていることはできなかった。
「教えてください!その、方法を……!」
叫ぶ私の声は、夜の静寂を切り裂いて響いた。
自分のものとは思えないほど、強く、まっすぐな声だった。
つい先刻までは、絶望の淵でこのまま命を落としても構わないとさえ思っていた。
けれど、私は今、こうして生かされている。
この人に、拾い上げられた。
ならば、今度は私が手を伸ばす番だ。
「……あなたの、一生を捧げる覚悟が要ります」
「一生……」
「それは、もはや人としての平穏を捨てるということにもなります」
その言葉の重みが、ずしりと胸に沈み込む。
ほんの数分前までは、ただの行きずりの者同士。
助けた者と、助けられた者。
それだけの関係でしかなかったはずなのに。
けれど、私の魂は、この時のために生かされたのだと。
根拠のない確信が、凍りついた心を動かす。
ここで背を向ければ、私はきっと、この先どれほど生き延びても、自分を許せない。
「構いません!私が、この方を助けます。どうか、助けさせてください!」
「……わかりました。これより先は、あなたの命を隊長に預けることになる」
隊士の沈痛な声から最小限の手引きを受け、私は必死に抗うその人へと、一歩を踏み出した。
あんなに恐ろしいと感じていた死の気配。
けれど、今私が感じているのは恐怖ではない。
私を襲った化け物への忌むべき感情と、目の前の彼を蝕む痛みへの、やり場のない憤りだった。
彼の本能に、すべてを委ねる。
後は、この身を捧げる覚悟を、魂に刻み込むだけ。
不思議なほど、迷いは無かった。
ただ、ただ。
私を救ってくれたこの人を、闇の底から引き戻したい。
近づくほどに猛る熱風が、肌を焼き焦がさんばかりに吹き荒れる。
乾いた風に目を射られ、視界は白く霞んでいく。
乱れた髪が激しく舞い上がり、頬を打つ。
それでも、足は止まらなかった。
彼が大地に深く突き立てた、抜き身の刃。
そのもとへと辿り着くと、荒れ狂っていた風がふっと和らいだ。
まるで、台風の目のように、一時だけ訪れる静けさのように。
私は、彼の目の前に静かに膝をついた。
「先ほどは、命を救っていただき……ありがとうございます」
紅く、燃えるように充血した瞳。
苦痛に歪むその貌へ、私は震える指先をそっと伸ばした。
熱い。肌に触れる寸前の空気まで、燃えているようだった。
「今度は、私の番です……。貴方の苦しみを、私にください」
カラン、と硬い音を立てて、彼の手から刀が零れ落ちる。
次の瞬間、私は鉄のように強靭な腕に抱き寄せられた。
壊れ物を抱くような、それでいて逃がさぬような強い力。
息が詰まるほどなのに、不思議と嫌ではなかった。
なおも彼は、内なる衝動に抗おうと、全身を強張らせて喘いでいる。
私は、彼の広い背に、そして汗に濡れた頭へと腕を回し、慈しむように深く抱きしめ返した。
どうか。
どうか、この人が戻ってこられますように。
首元に埋められた彼の顔が、微かに震えている。
獣のような唸りと、人の苦しげな息遣いが、すぐ耳の近くで混ざり合った。
やがてその震えが収まると、熱い吐息が私の首筋をなぞる。
びくりと、甘い痺れのような反応が全身を駆け抜けた。
「っ……」
直後。
首筋に、鋭く、熱い痛みが走った。
牙を立てられている。
けれど、不思議と怖くはなかった。
痛いはずなのに、胸の奥からこみ上げてくるのは、恐怖だけではない。
彼の苦しみの一端を、ようやく受け取れたのだという、祈りにも似た安堵だった。
身体を、精神を、そのすべてを彼に委ね、一つに溶けていくような感覚。
熱くて、苦しくて、けれど離れがたい。
痛みすら、抗いがたい甘美な蜜へと変わっていく。
「んっ……、ぁ……」
私の体内を巡る血が、彼の中にある何かと入れ替わるように。
この人の積み重ねてきた想いが、濁流となって私の中に流れ込んでくる。
言葉にならない悲しみ。
逃れられぬ宿命の辛さ。
それでも刀を握り、誰かを守り続けてきた孤独。
そのすべてを引き受け、分かち合うように。
どれほど、そうしていただろうか。
現実の時間にすれば、ほんの数秒のことだったのかもしれない。
けれど、私にはまるで永遠にも思えるほど、長く、深い抱擁だった。
辺りを包んでいた焦熱の風が、穏やかに凪いでいく。
重なり合う彼の鼓動が、そして荒い呼吸が、徐々に静けさを取り戻していくのが解った。
嵐の後に残る、かすかな温もり。
私はその音に耳を澄ませながら、必死に意識を繋ぎ止めていた。
「……っは……。これは……一体……」
私を拘束していた腕の力がふっと解かれる。
それと同時に、これまでに経験したことのない激しい倦怠感が襲い、私はぐったりとその場に崩れ落ちた。
「隊長!!」
「……俺は、鬼に呑まれかけたのか……?」
「このお嬢さんのおかげです!お嬢さんが、番を引き受けてくださったから!」
……上手くいったのだろうか。
私は彼の重荷を、少しでも軽くして差し上げられたのだろうか。
鉛のように体が重く、顔を上げることすら叶わない。
息をするのも精一杯で、座っていることさえ限界だった。
首筋に残る熱だけが、今起きたことは夢ではないのだと告げている。
「はぁっ……、はぁっ……っ……」
意識が遠のき、身体がぐらりと傾く。
ああ、地面が近づいてくる。
そう覚悟して目を閉じると、目の前の人に抱き留められた。
「おい、しっかりしろ!大丈夫か、おいっ!!」
焦燥に駆られたような、けれどどこか優しい声が聞こえる。
先ほどまでの荒れていた声とは違う。
ちゃんと、人の声だった。
何かを答えようとしたけれど、唇は微かに震えるばかりで言葉にならない。
ただ、彼が助かったのだという安堵に包まれながら。
そして、もう一度だけその腕の温もりを確かめながら。
私は、そっと重い瞼を下ろした。
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