第三十一話 結毬の中の夜明け
「……やっと、夜明け……」
重苦しい沈黙を破るように零れた言葉は、朝日を浴びても少しも温まらなかった。
屋敷の人たちは、一体どうなったのだろう。
視界に入る範囲に、生きて動いている人の姿はない。
昨夜、屋敷の結界が破られた時には数体だったはずの鬼が、今では私たちの『結毬』の結界を包囲するように、十数体もの群れとなって蠢いている。
夜の間、何度も遠くで悲鳴のようなものが聞こえた。
木が折れる音。瓦が砕ける音。何かを引きずるような、湿った音。
そのたびに息を殺し、鈴の口を塞ぎ、自分の心臓の音さえ鬼に聞こえてしまうのではないかと怯え続けた。
「なんで……なんでこんなことになったのよ……。どうして、鬼が……っ、誰か助けてよ……!」
鈴はずっと膝を抱えたまま、歯の根も合わないほどガクガクと震え続けている。
目元は泣き腫らして赤く、声は掠れていた。
あの時、彼女を見捨てて逃げることもできた。
けれど、もしそんなことをして生き残ったとして、私はこの先、笑顔で永太や琴の隣に立つことなんてできない。
二人に、胸を張って会えなくなる。
それだけの理由で、身体が勝手に動いていたのだ。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
時が経つごとに、私たちを囲む鬼の数は増えていく。
その群れの中には、見覚えのある着物を纏った影も混ざっていた。
おそらく、逃げ遅れた屋敷の人たちが鬼化させられたのだろう。
昨日まで、私に茶を淹れてくれた人。
廊下ですれ違うたび、静かに頭を下げてくれた人。
その誰かだったかもしれないものが、濁った瞳でこちらを見つめている。
あまりにも残酷な現実に、意識が遠のきそうになる。
「あれ……?」
気のせいだろうか。
でも……確信に近い違和感が指先に走る。
「ねえ、鈴……」
「なによっ!?こんな時に話しかけないでよ!」
「この結界……色が薄くなってきていない?」
「はあ!?……嘘、そんな、どういうことよ!!」
確信は絶望へと変わっていく。
本来、一人で使用すれば三日は持つはずの結界。
けれど、定員外の二人が入っているせいで、効力が弱まっているのかもしれない。
紅く輝いていた光の網目は、少しずつ濁り、ところどころに頼りない灰色が混じり始めていた。
あとどれくらいの猶予が残されているのだろう。
もし結界が解けてしまったら、二人で逃げ切れるだろうか。
いや、これだけの鬼に全方位を囲まれていて、逃げ場所なんてどこにもない。
「鈴……約束して。もしここから逃げられたら、永太と琴のことを……二人をよろしくね」
「っ、突然何を言い出すのよ……死ぬみたいな言い方しないでよ!」
鬼たちの狙いは、間違いなく番である私。
私が囮になって鬼を惹きつければ、鈴だけでも門の外へ逃がすことができるかもしれない。
その先に味方がいる保証などないけども、ここで二人とも喰われるよりは、まだわずかな可能性がある。
「約束して。あの子たちの家族は、もうあなたしかいないんだから」
「っ、無理よ!私一人じゃ何もできないわよ!!」
「お願い!!鈴にしか頼めないの、実の姉でしょう!?」
「……だって、見つかってないんですもの!!」
「……え?」
「見つけたなんて嘘よ!姉さんばかり綺麗で安全な場所にいて、いい目を見てるから、悔しくて嘘をついただけよ……っ!」
鈴の言葉に、頭の中が真っ白になる。
私は、なんて馬鹿なのだろう。
懲りずに何度も騙されて。
また、この子の嘘に踊らされていた。
胸の奥で、怒りとも絶望ともつかないものが膨れ上がる。
けれど、目の前では結界の光がじわじわと弱まっている。
今は、怒っている場合じゃない。
……落ち着いて。
永太と琴が見つかっていないなら、まだどこかで生きている可能性もある。
ここで諦めてはいけない。
「……それなら、私の代わりに、二人のことを探して。……頼んだわよ、鈴」
「だから、死ぬみたいな言い方しないでって言ってるでしょ……っ!」
鈴の声は怒っているようで、泣き出しそうでもある。
けれど私は、それ以上言い返すことができない。
やがて、空が茜色に染まり始める頃。
最初は鮮やかな紅色を放っていた格子の結界が、全体がくすんだ灰色を帯び始めた。
ピシッ、という音と共に、結界の表面に無数の亀裂が入る。
「……鈴、結界が壊れたらすぐに全速力で門に向かって。鬼は私が惹き付けるから……」
「嫌ぁっ!!そんなの無理よ!!まだ助けは来ないの!?鬼狩りとやらは何をしてるのよ!!!」
一定の距離を保っていた鬼たちが、一斉に立ち上がり、にじり寄ってくる。
向こう側から見ても、この結界が限界を迎えているのは明白なのだろう。
裂けた口元から涎を垂らし、爪を地面に食い込ませながら、じわじわと距離を詰めてくる。
不意に、結界に触れようとした鬼の手が、ジュッと嫌な音を立てた。
けれど、その手は弾け飛ばない。
最初に結界に触れた鬼の腕は、炭のように丸焦げになっていたはずなのに……。
「来ないで……っ」
再び、飢えた手を伸ばしてきた鬼を押し返すように、私は渾身の力を込めて結界の壁へと両腕を伸ばした。
「来ないで……っ!!近寄らないで!!!」
「ギィヤァァァァッ!!!」
「えっ……!?」
くすみかけていた結界の色が、突如として最初の時よりも鮮烈な紅を帯びて光り輝いた。
確かに刻まれていたはずの亀裂が、内側から溢れ出す光に飲み込まれるようにして消滅していく。
掌の奥から、熱いものが結界へと流れ込んでいく感覚が。
鬼たちも予想外の反動に驚いたのか、再び私たちの結界から大きく距離を取った。
何が起きたのか分からず、呆然と自分の両手と、結界の向こうで呻く鬼を交互に見つめる。
……私の意志が、結界を強化したの?
「あ……あ……っ、姉さん、あれ……っ」
腰を抜かして座り込む鈴の、震える指の先に目を向ける。
屋敷の塀に巨大な鉤爪をかけ、ゆっくりと立ち上がる影があった。
「え……?」
屋敷を跨ぐことができるほど、山のように巨大な鬼。
今まで見てきた鬼は、どれも人間と同じか、少し大きい程度だった。
けれど目の前のそれは、あまりにも違う。
背中は黒い岩のように盛り上がり、腕は大木の幹のように太い。
ひび割れた額から伸びる角は、古びた刃のように鈍く光っていた。
あんな異形の怪物が、実在するなんて。
巨大な鬼の濁った瞳が、私たちを捉える。
他の鬼たちが一斉に身を低くした。
怯えているのだ。
仲間であるはずの鬼でさえ、あれを恐れている。
結界は奇跡的に輝きを取り戻した。
けれど、目の前の巨大な絶望を前に、私もまた鈴と同じようにその場に崩れ落ちた。
最強の鬼狩りと言われる朔夜でも、あんな鬼に勝てるの……?
それでも、私は朔夜に『おかえりなさい』を言いたい。
永太と琴にも、最後にもう一度だけでいいから会いたい。
ただそれだけの、けれど何よりも切実な願いを抱いて、私は今まさに崩れようとする絶望を見つめる。
巨大な鬼が、その醜悪な爪を塀にかけ、内側へと身を乗り出そうとした、その時——。
空を裂くような、一筋の鋭い閃光が鬼の巨体を横切った。
音を立てて絶命したのは鬼の方だった。
巨体がバランスを崩して塀の上へと倒れ込み、ガシャァンという凄まじい音と共に、瓦が土埃を上げて崩れ落ちていく。
「さく、や……!」
夕日を背負い、塀の上に凛と立つその人影。
逆光で顔は判然としないけれど、その立ち姿を、見間違えるはずがない。
「一番隊!残党を殲滅しろ!!一匹たりとも、この敷地から逃がすな!!」
彼の号令と共に、影が飛ぶように次々と鬼狩りの隊士たちが現れる。
彼らは迷いのない動きで、私たちを包囲していた鬼たちを瞬く間に蹴散らしていった。
その凄惨な戦場の中を、朔夜はただ一人、静かに刀を鞘に納めながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
返り血を浴び、衣の端を土埃に汚しながらも、その足取りには一切の乱れがない。
「……よく頑張ったな。もう少しだけ待っていろ。すぐ終わる」
「っ、はい……っ!」
「すぐ終わる」
その言葉に嘘はなかった。
最強を謳われる睦月隊の蹂躙は、十分もかからずに終結した。
屋敷に入り込んだ鬼たちは次々と斬り伏せられ、最後に残った一体も、隊士の刃に喉を断たれて地に沈む。
耳を塞ぎたくなるような咆哮が、やっと途切れた。
「……もう、出てきて大丈夫だ」
「あ、あの……どうやって出れば……?」
「結界の主であるお前が望めば、普通に通り抜けられるはずだ」
あんなに恐ろしい鬼たちの猛攻を跳ね返していた紅い結界。
恐る恐る、一歩、結界の外側へ向かって足を踏み出した。
私の身体が結界を抜ける。
続いて鈴が這い出すと、結界は役目を終えたかのようにふわっと霧散して消えた。
緊張が解けると同時に、私はまたしてもその場に腰を抜かすように座り込んでしまう。
「……怪我は、ないか?」
「私は、大丈夫です……。でも、屋敷の皆さんが……私を守るために、何人もの方が……」
「それは俺の責任だ。俺が不在だったがゆえの過失。お前が背負うべきことではない」
そんなふうに、割り切れるわけがない。
私なんかよりずっと長く朔夜に仕え、帰りを待つ家族だっていたはずの命が、私のために失われたのだ。
……なぜ、こんなことに。
結界が破られる直前に、真っ白な顔で走り去っていった西園寺さんの姿が、嫌でも脳裏を過る。
彼女のこれまでの言動を考えれば、狙いは私一人だったはずだ。
他の人々は、私の存在に巻き込まれたに過ぎない。
喉の奥が詰まった。
私がここに来なければ。
私が朔夜の番にならなければ。
そんな考えが、胸の中へ流れ込んでくる。
「……そんな顔をするな。お前のために、予定を早めて戻ったんだ」
「私のため、ですか……?」
「ああ。少しでも早く、会わせてやりたくてな」
「会わせ、たくて……?」
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