第三十二話 ただいま、と再会の涙
朔夜の声に、耳を澄ませた。
戦闘終了後の喧騒に混じって、どこからか聞き慣れた、懐かしい声が響く。
「……おねえちゃ……っ!」
とたとたと、可愛らしい足音が畳を叩く。
時折自分の足に躓きそうになりながら、一直線にこちらへ向かってくる小さな二つの影。
「おねーーちゃーーーん!!」
「っ……あ……!」
その姿を目にしただけで、視界は瞬時に熱いもので滲む。
駆け寄らずにはいられないのに、溢れる涙のせいで足元が覚束ない。
私も転がるようにして二人を迎え入れた。
「永太っ!!琴!!」
「うぁぁあああん!!おねえちゃーーん!!」
「おね、おねえちゃ……っ、あぁぁああ!!」
小さな二人が、全力で私の胸の中に飛び込んでくる。
もう二度と、その肌に触れることはできないかもしれないと、何度も諦めそうになった。
けれど今、私の腕の中には、確かに二人の温もりと、生きた重みが存在している。
細い腕が、私の背中に必死にしがみつく。
小さな頬が、私の胸元に押しつけられる。
その全部が、夢ではないのだと教えてくれた。
「よかったっ……本当に、無事で……!」
「う、うえぇぇん!」
「元気な顔、お姉ちゃんに見せてくれる……?」
二人の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、私は着物の袖を汚すのも厭わず拭う。
心なしか、少し痩せたかもしれない。
頬も、以前よりこけて見える。
それでも、しっかりと自分の足で走り、枯れんばかりの大きな声で泣いている。
それだけで、今は十分だった。
「……この前のことがあったからな。俺が直々に二人の所在を確認しに向かったんだ」
「そうだったんですね……!ありがとうございます、本当に、何とお礼を言えばいいのか——」
「よかったぁ!!これで全部解決じゃない!!」
朔夜へ感謝を告げようとした私の言葉は、後ろから響いた鈴の声にかき消された。
彼女は、再会した弟妹を抱きしめるでもなく、その無事を喜ぶ風でもない。
ただただ、浅ましい期待に目を輝かせ、朔夜へと擦り寄った。
「朔夜様!さすがだわ!これで私たちの今後の面倒も、見ていただけるんですよね!」
「鈴!?何を……」
「え?だって、この前おっしゃったじゃない。『責任を持って援助する』って!」
ああ——。
胸の奥で、何かが静かに砕け散る音がした。
「そうと決まったら、すぐに父さんと母さんも呼ばなくちゃ!きっと喜ぶわ」
「別宅も建ててもらえるんでしょう?私、洋風のお部屋がいいわ。一度でいいから、ベッドとやらに寝てみたかったのよ!」
永太と琴には一瞥もくれず、鈴は物語の絵空事を語るようなうつろな口調で、自分の欲望を並べ立てていく。
琴が怯えたように私の袖を握った。
永太はしゃくりあげながらも、鈴の方を見て唇を引き結んでいる。
その小さな反応だけで、二人がこれまでどれほど怖い思いをしてきたのか、嫌というほど伝わってきた。
「鈴。……今は、その話をする時じゃない」
「は?何よ、さっきからずっと偉そうに。助かったんだからいいじゃない」
「よくない」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「永太と琴が無事だった。それだけは、本当によかった。けれど、あなたは二人を使って私を脅した。見つけていないと分かっていたのに、居場所を知っているような嘘をついた」
「だ、だって、それは……」
「それに、今もこの子たちの顔を見ようともしない」
鈴の顔が、見る見るうちに引きつっていく。
怒りなのか、怯えなのか、私には分からない。
けれど、もう目を逸らすことはできなかった。
二人を抱きしめる腕に、力を込める。
「……私は、もうあなたたちの言葉に従わない。永太と琴も、渡さない」
ようやく言えた。
ずっと言えなかった言葉。
朔夜が静かに私の隣へ立つ。
何も言わないけれど、その存在だけで、足元に力が戻ってくる気がした。
「え?どうしてよ、姉さん。独り占めはよくないわよ?」
「私たちは……もう、家族とは言えない。鈴もわかっているでしょう」
静かに、けれどはっきりと拒絶の言葉を放つ。
あの鬼に襲われた夜。
血が繋がっていながらも、私の心を、母の想いを。
そして幼い弟妹の安全さえも踏みにじった彼女たちは、もう私の家族ではなくなってしまったのだ。
「またそんなこと言って!母親が違うからって、そんなの今更じゃない」
なんて滑稽なのだろう。
母親が違うとはいえ、半分は同じ血が流れているというのに。
赤の他人よりも、今の私と彼女は、気が遠くなるほど離れた場所にいる。
「……違うわ。私はもう、父さんも継母さんも、そして鈴。あなたを家族として見ることはできない」
一滴の血も繋がっていない朔夜は、私に「家族になろう」と言ってくれた。
そして今も、こうして傷ついた私に寄り添い、静かに支えてくれている。
どちらが心の底から私を想っているのか。
答えは、もう出ていた。
「都合のいい家族ごっこは、もう終わり。父さんたちにも、そう伝えてくれて構わないから」
「何それ!?永太と琴だけここに置いて、よい思いをさせるってこと!?そんなのズルいじゃない!!」
ズルい……。
本当に、これがズルいことなのだろうか。
私はあの夜、置き去りにされた。
永太も琴も、人混みに紛れて捨てられたようなものだった。
それでも鈴の口から出てくるのは、二人の無事を喜ぶ言葉ではなく、私を責める言葉ばかり。
「ズルいとか、ズルくないとか。そう言えてしまう時点で、私たちはもう家族には戻れない」
できるなら、いつまでも仲のよい家族でいたいと願っていた時期もあった。
母が亡くなり、継母が来て、鈴が生まれ……永太と琴が生まれた。
家事や世話をすべて押し付けられても、そこに確かな幸せがあると信じていた。
過酷な日々でも、家族だから耐えられるのだと思っていた。
けれどあの夜、私の信じていた『家族』は、音を立てて死んだのだ。
「……ごめんなさい。私をどれだけ恨んでくれても構わない」
私は逃げずに、まっすぐに鈴の目を見て告げた。
その瞳の奥にある怒りも、嫉妬も、理解できないわけではない。
けれど、もう受け止める義務はない。
「私は、永太と琴を守る。あなたたちの都合に、もう二人を巻き込ませない」
鈴が何かを言い返そうとした時、隣から低い声が落ちる。
「……聞いたか。俺の番がこう言っている。この屋敷において、番の意志は絶対だ」
「朔夜……」
朔夜の大きな手が、私の肩に置かれる。
「——部外者は、即刻出て行ってもらおうか」
「な、何でよ!話が違うじゃない!」
「お帰りだ。門の外まで丁重にお連れしろ」
朔夜の声に使用人たちが動き、鈴は両脇を抱え込まれ、引きずられていく間も、何かを叫び続けていた。
そんな鈴の姿を見ても、不思議なほど何も感じない。
悲しみも、憐憫も、怒りさえも。
鈴とは十六年という歳月を同じ屋根の下で過ごしたはずなのに。
その終わりは、こんなにも驚くほどあっけない。
「おねーちゃん……ことは?こととおにいちゃんは、おねえちゃんと、いっしょにいれるの?」
琴が、私の着物の裾をぎゅっと握りしめる。
その隣で、永太も唇を引き結んだまま、私の袖を掴む。
二人の小さな手が、まだ震えている。
「もちろん!永太も琴も、ずっとお姉ちゃんと一緒よ。もうどこにも行かない」
その場にしゃがみ込み、二人の目線に合わせて、精いっぱいの笑顔を作る。
大丈夫だと、もう誰にも置いていかれないのだと、二人に信じてほしかった。
「あ……ごめんなさい。私、勝手に決めてしまって。……もし迷惑なら、私と二人でどこか家を借りて……」
不安に駆られ、隣に立つ朔夜を見上げる。
「……迷惑なものか。お前の家族なら、俺の家族も同然だ。歓迎しよう」
彼はそう言って、二人の小さな体を一度に軽々と抱き上げてくれた。
驚いた永太と琴が、目を丸くする。
けれど朔夜の腕は安定していて、二人を落とすことなど決してないのだと、見ているだけで分かった。
「ありがとうございます。——そして、お帰りなさい、朔夜」
「……ああ。ただいま」
その一言を、ようやく言えた。
やっと長い一日が終わったのだと、胸の奥に溜まっていた熱いものが、また込み上げてきそうになる。
やがて、朔夜の腕の中で揺られていた二人が、うとうとと船を漕ぎ始めた。
朝からの移動による疲れと、ようやく手に入れた安らぎが、二人を深い眠りへと誘ったのだろう。
幸いにも無傷だった私の部屋の布団に二人を寝かせると、すぐに可愛らしい寝息が聞こえてきた。
以前は当たり前だったこの寝顔を、またこうして見守ることができるなんて。
琴の小さな手は、眠ってからも私の袖を離そうとしなかった。
永太も、何度かうなされるように眉を寄せ、そのたびに私が背中を撫でると、少しずつ呼吸を落ち着かせていく。
時が経つのも忘れて、私は二人の寝顔に見入ってしまう。
けれど、屋敷内であれだけの戦闘があったのだ。
事後処理や、傷ついた隊士たちのことが気にかかる。
二人を起こさないように部屋に残し、何か手伝いはないかと朔夜を探しても、どこにも彼の姿はない。
「あの、朔夜はどこへ……?」
「所用があると言い残し、お出かけになりましたが……」
所用?
屋敷に使用人の犠牲まで出ているこの状況で、彼が単なる用事で出かけるとは思えない。
嫌な予感が、冷たい汗となって背中を伝う。
「……私も、少し外へ出ます。車をお願いできますか?」
護衛の隊士と共に、私は急ぎ車に乗り込む。
朔夜は、普段は不愛想で言葉足らずな口調が目立つ人。
けれど、その本質は誰よりも情に厚く、身内に対する慈しみを持っている。
そんな彼が、時折、すべてを凍てつかせるような目をすることがある。
そのどれもが——番である私が害され、理不尽に踏みにじられた時。
西園寺さんが真っ白な顔で逃げていったこと。
屋敷の結界が破られたこと。
多くの使用人たちが犠牲になったこと。
そのすべてが、朔夜の中で一本の線に繋がっているのだとしたら。
「朔夜……お願い、早まらないで……!」
祈るような思いを胸に、車を鬼省庁へと向かってもらう。
普段なら十分もかからないその距離が、今は恐ろしいほど遠く感じられた。
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