第二十四話 夜明けの噛み痕
ふっと身体から、心地よい重みと体温が離れた。
「……んっ」
朝の冷たい空気が、首筋の肌に触れる。
昨夜、彼の唇と牙が触れていた場所が、そこだけ熱を持ったまま小さく疼いた。
「——起きたか」
耳元で響いた静かな声に、重いまぶたを押し上げる。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
背中には、まだ確かな熱が残っている。
……ひょっとして私は、夜が明けるまでずっと、彼の腕に抱き締められていたのだろうか。
「え、あ……おは、ようございます」
昨晩の記憶が奔流のように脳裏を駆け巡り、一気に意識が覚醒する。
あんな風に、自分から誘うように首筋を差し出すなんて。
しかも、そのまま彼の腕の中で眠ってしまうなんて。
あまりの恥ずかしさに、私は着崩れた男物の寝間着を整えるのもそこそこに、膝を抱えて顔を埋めた。
「身体は大丈夫か?無理をさせたのなら、すまない……」
「いえ……そんな、全然……大丈夫です」
無理どころか、その逆だ。
吸血に伴うあの甘い痺れと、包み込まれるような安心感があまりに心地よくて、気が付いた時にはそのまま深い眠りに落ちていたなんて。
とてもではないが、正直に打ち明けることなどできそうにない。
「ならよかった。……もう少しだけ後片付けが残っているが、それが済んだら撤収だ」
彼の声色が、夜の焦燥に駆られたような響きとは一変して、穏やかに和らぐ。
彼が落ち着きを取り戻してくれたことに、ほっとする。
身支度を済ませて天幕の外へ出ると、辺りはすでに慌ただしい撤収の気配に満ちていた。
天幕は次々に解体され、重い荷箱が閉じられ、使い終えた水桶が次々と運ばれていく。
隊士たちは疲労の色を濃く滲ませながらも、誰一人として手を止めない。
朝の光は穏やかなはずなのに、その下に広がる光景だけは、昨夜の戦いをまだ引きずっていた。
鬼の亡骸は夜通し火に焚かれ、跡形もなく灰に帰された。
けれど、人の手で丁重に弔うべきものはそうではない。
村の外れでは、今もなお埋葬のための重苦しい土の音が響き、掘り返された土が積み上がっていた。
その光景を前に息を呑む。
「……掃討が終わっても、まだ終わっていないことがたくさんあるのですね」
「戦が終わった後には、必ずその後始末が残る。死者を送り、生者の場を清めるまではな」
朔夜はいつものように淡々と答える。
その声には、ただ一番隊隊長としての、冷静さだけが宿っていた。
昨夜、あれほど近くにいたのに、ほんの少しだけ寂しい。
強く抱き締められ、熱に溶かされるように血を吸われて。
あの腕の強さも、途切れがちな吐息も、今はまるで初めからなかったことのように。
もちろん、そんなことを口にできるはずもない。
私は自分の首筋に触れそうになった指を、慌てて握り込んだ。
「……顔色が悪いな。やはり、どこか具合でも悪いのか」
「えっ、いえ、大丈夫です。ちゃんと寝ましたから」
「寝た、か……」
朔夜の視線が、ほんの一瞬だけ、私の首筋へと落ちた。
そこには昨夜新しく上書きされた噛み痕が、今も微かな熱を持って、疼くように残っている。
彼が私の内側に触れた証が、皮膚の下で脈打っている気がした。
「……帰りの車の中では、無理をせず休め」
「はい。ありがとうございます」
そう返したものの、とても休める気はしない。
身体は確かに疲れている。
それでも、心だけが妙に冴えていた。
撤収作業は、驚くほど手際よく進んでいった。
隊ごとに荷が整然とまとめられ、負傷者は先に下山を開始し、番たちもそれぞれ指定された車列へと配置につく。
昨夜まで私のことを、剥き出しの敵意や値踏みするような目で見つめていた番候補たちも、今朝は妙に静まり返っていた。
視線がなくなったわけではない。
けれど、それ以上に死線を潜り抜けた疲労と、目の当たりにした戦場の重圧が、彼女たちから余裕を奪っているようだった。
誰もが、何かを胸の内に沈めたまま動いている。
昨日よりも少しだけ、この場所の重みが分かった気がした。
来た時と同じ車へと乗り込む。
朔夜と並んで腰を下ろすと、軋む音とともに、車がゆっくりと動き出した。
村を囲っていた結界のしめ縄はすでに解かれており、窓の外に広がる朝の光の中には、焼け焦げた無惨な家並みだけが取り残されていた。
現実を切り離すように、そっと目を伏せる。
鬼は、人を喰らう。
そして鬼を増やし、戦力を増強するために、人を襲う。
それなのに——あの日、彼らは同胞を救い出すために、明確な意志を持って援軍まで寄越した。
あの戦場で見せつけられた、鬼たちの絆という名の歪な執着。
その光景を思い出すたび、鉛のような冷たさが胸の底に沈んでいく。
「……余計なことを考え込むな」
「えっ」
「すべて顔に出ている。眉間に皺が寄っているぞ」
「……そんなに、ですか?」
朔夜は答えず、流れていく車窓の外へと視線を向けたままだった。
けれど、その重苦しい沈黙は、私のためを思っての、彼なりの不器用な忠告のようにも思えた。
「朔夜は……」
「なんだ」
「鬼が、仲間を助けに来たこと……驚かなかったんですか?」
問いかけると、少しだけ呼吸を止めるような間があった。
「度々あったし、鬼にも群れはある。……そして、奴らなりの知性も倫理もある。そこまでは判明している」
「そうなんですね……」
「奴らは、ただの獣ではない。そう見誤った者から死ぬ」
低く落とされた声は、それ以上は聞くな、という明確な拒絶に聞こえた。
けれど私は、彼の端正な横顔に刻まれた、微かな翳りを見てしまった。
驚かなかったのではない。
驚くことを、遠い昔にやめてしまっている。
そんな、感情を削ぎ落とした顔。
車は険しい山道を下っていく。
車輪が石を踏むたびに、車体が小さく跳ねる。
規則的な揺れに身を任せているうちに、昨夜からの極限の疲労が、どろりとした眠りとなって瞼へ落ちてきた。
眠ってはいけないと思うのに、身体はもう限界だった。
ふと意識が浮上したとき、自分の肩が、こつりと隣に座る朔夜の肩にもたれていることに気が付く。
「……っ、すみません」
「……構わん」
「でも……」
「離れろとは言っていない。……寝ていろ」
朔夜はそれ以上、何も言わない。
ただ、押し戻すこともしない。
車内は静かだった。
他の者たちも疲れ切っているのか、低い車輪の音だけが、ゆっくりと耳に残る。
私は迷いながらも、もう一度そっと彼の肩へ身を預けた。
昨夜とは少しだけ違う。
けれど、そこには同じ体温があった。
確かに戻ってきた人の温もりだった。
結局、私は彼の体温を頼りに、半ば微睡むようにして屋敷までの道中を過ごした。
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