第二十三話 荒らされた天幕の夜
後始末がようやくひと段落し、疲れ果てた身体を引きずるようにして天幕へ戻る。
足元は泥を吸って重く、指先にはまだ、血と土の感触がこびりついているよう。
天幕に入ってすぐ、目の前の惨状に、唖然とする。
「……え?何、これ……」
視界に飛び込んできたのは、無残に変貌した私たちの寝所。
朝、丁寧に畳んで部屋の端へ寄せておいたはずの布団が、鋭利な刃物のようなもので真ん中から大きく引き裂かれている。
中の白い綿は引きずり出されて、泥に塗れ床一面に散乱していた。
さらに、脇に置いてあったはずの私の着替えにも、嫌がらせのような黒い染みがべったりと広がっている。
布地の奥まで染み込み、修復不可能なほどに汚されていた。
しばらくの間、目の前の光景の意味が理解できない。
ただ、心臓の鼓動だけが早まっていく。
遅れて胸の奥に、どろりとした冷たい塊が落ちた。
「……こんなことをする余裕があった人がいるんですね」
ぽつりと零れた自分の声は、思った以上に乾いていた。
さっきまで、たくさんの人が傷つきながら鬼と戦っていた。
その間にここに忍び込み、こんなことをする人がいるだなんて考えたくもない。
考えたくないのに目の前に起きている事実が、鬼に襲われた時とは違う種類の恐ろしさを連れてくる。
「……誰か入ったな」
後ろから入ってきた朔夜は、荒らされた布団を無言で見下ろす。
その目が、鬼を斬っていた時より冷たく見えて、息が詰まる。
「副官を呼べ。今すぐにだ」
「は、はいっ!」
外にいた隊士が、彼の殺気に圧されるようにして慌てて駆けていく。
けれど、今の野営地は負傷者の手当てや犠牲者の埋葬、そして残党への警戒で、誰も彼もが限界を超えて走り回っている。
こんな混乱の中で犯人を探し出すにはあまりに遅すぎたし、今はそれどころではない事態なのだということは、私にだって分かっていた。
「ごめんなさい……。私の管理が甘かったせいで、天幕まで汚してしまって……」
「お前のせいなものか。余計なことを考えるな」
そう言われてしまうと、私は口を噤むことしかできない。
やがて副官が、ひどく困惑した表情を浮かべて戻ってきた。
「申し訳ありません、睦月隊長……。予備の寝具は、重傷者用の幕舎へほとんど回してしまっております。女物の着替えも、今夜すぐに新品を整えるのは物理的に不可能でして……」
そこまで言って、副官は申し訳なさそうに言い淀み、慌てて首を振った。
「わ、私は大丈夫です!他の番の方たちの天幕で、一晩だけ片隅に置いていただければ……」
「駄目だ。許可できない」
「でも、布団も一組しかありませんし、ご迷惑を……」
「駄目だと言っている。聞こえなかったか」
朔夜は私と目を合わせることもしないまま、副官へ淡々と命じる。
「替えの寝間着だけ用意しろ。女物がないのなら、俺の予備で構わん。それと、今夜はこの天幕に誰も近づけるな」
「……承知いたしました」
そこで初めて、朔夜が私をまっすぐに見た。
「お前を、こんな状況で独りにする気はない。いいな」
乱暴で、有無を言わさない物言い。
なのに、その一言だけで、胸の奥で暴れていたざわつきが、違う何かに変わるのを感じた。
けれど、手渡された寝間着を広げてみて、今度は別の意味で身体が固まってしまう。
どこをどう見ても、がっしりとした体躯の彼に合わせた男物だ。
袖も裾も、私にはあまりに長すぎる。
「え……これを、私が着るのですか?」
「不服か」
「い、いえ。不服ではないですけれど……」
「なら、さっさと着替えろ」
結局、衝立の向こうでそれに袖を通す。
ぶかぶかで、袖を二度、三度と折り返してもまだ指先が隠れてしまう。
裾も長く、少しでも気を抜けば足元に絡みつきそうなほど。
けれど、かすかに朔夜と同じ、清潔な香の匂いがふわりと鼻先を掠める。
昼間の血の匂いも、焦げた肉の臭いも、ほんの少しだけ遠ざかった気がした。
それが余計に恥ずかしくて、顔が熱くなる。
恐る恐る衝立の外へ出ると、朔夜は荒らされずに済んだ方の布団を、手際よく整えていた。
「あの……本当に、よいのでしょうか……」
「要らぬ心配をするなと言ったはずだ」
「でも、布団は一つしか残っていませんし……」
「だからどうした。敵襲が予測される戦地だぞ」
「どうしたって、その……」
「俺は端を使う。お前は奥で大人しくしていろ。朝までそこを動くな」
まるで何の問題もないと言わんばかりの平然とした顔で言い切られ、私の方が言葉に詰まってしまう。
「しっかり休むのもお前の仕事だ。……眠れ。明日も早い」
それ以上は何も言われず、天幕の灯りが少しだけ落とされる。
でも、眠れと言われて素直に寝付けるほど、私は図太くはできていない。
今日起きた凄惨な戦い。
荒らされた寝所から感じる、自分に向けられた悪意。
本当は心身ともに限界まで疲弊しているはずなのに、意識は冴えるばかりで、眠れる気が全くしない。
同じ布団の、端と端。
間に距離はあるはずなのに、少し動くだけで触れてしまえるほど。
隣にいる彼の熱も、衣擦れの音も、穏やかな息遣いさえも、すぐそこにある。
いや、穏やかとは言えないのかもしれない。
隣から聞こえる、朔夜の微かな吐息。
それは決して安らかな眠りによるものではなく、何かに耐え忍ぶような、そんな気配を孕んでいた。
あまりの距離の近さに、寝返りを打つことさえ躊躇ってしまう。
暗闇の中、すぐ背後に彼がいるという事実。
私の感覚はすべて背中の一点に集中していた。
きっと朔夜も、私がまだ起きていることに気づいているはず。
けれど、何を話しかければいいのか分からない。
ただ沈黙だけが、天幕の空気を重く支配していた。
「っ…………はぁっ」
やがて、溜息ともつかない、熱を帯びた吐息が朔夜の唇から漏れた。
やはり、無理をさせている。
激戦の直後で心身ともに疲弊しているはずなのに、私のせいで十分に休めていないのではないか。
そう思うと胸が痛み、今からでも別の天幕へお世話になるべきだと、起き上がろうとしたその時。
背後で衣擦れの音がして、背中に触れた彼の腕が、驚くほど熱いことに気づく。
ひょっとして、高熱があるのでは——。
「あの、朔夜……!っ、きゃっ!?」
振り返ろうとした刹那、有無を言わさぬ強い力で後ろから抱きすくめられた。
わけもわからないまま、逞しい腕が私の腹のあたりに回される。
あまりの力に、息が止まった。
それは逃がすまいとする拘束というより、何かに縋り付くような、切実な力を帯びていた。
肩口に、火傷しそうなほど熱い吐息が触れる。
背中から直に伝わってくる猛烈な体温。
自分の心臓の鼓動が、耳障りなほど大きく、早鐘を打ち鳴らした。
「……動くな。そのままにしておけ」
掠れた声はどこまでも低く、けれどひどく苦しげに響いた。
朔夜が、何かを必死に抑え込もうとしているのが痛いほど伝わってくる。
きっと、私がこのまま何もしなければ、彼は限界まで自分を削って我慢し続けてしまうだろう。
それが彼なりの優しさなのだとしても。
今の私には、それが一番見ていられない。
朔夜の体温に包まれるほど、昼間拒まれた時の胸の痛みまで思い出してしまう。
必要ない、と言われたし、勝手に気を揉むな、とも言われた。
それなのに今、彼は私を離さない。
矛盾しているはずなのに、責める気持ちは少しも湧かない。
ただ、この人も限界まで耐えているのだと、背中越しの熱が教えてくる。
「……悪い。やはり、我慢ができそうにない」
その告白を受け止めるように、私は彼が吸いやすい角度を探し、背中を押し当てるように身を預けた。
抱きすくめてくる腕に、そっと自分の体重を乗せる。
顎を上げ、乱れた髪を自ら掻き上げた。
まだあの夜の痕が残る、首筋の肌を晒す。
彼の喉が、私の肌に触れたまま小さく震える。
息を飲む音なのか、堪えている音なのか分からない。
けれど、そのかすかな震えが、昼間に鬼を一瞬で薙ぎ払った人と同じものとは思えないほど、ひどく人間らしく感じられた。
首筋をなぞる熱い吐息。
そこに混ざるように、彼の唇が私の肌を熱く、丁寧に追っていく。
「……加減が、できないかもしれない」
「っ……んっ。いい、ですよ……我慢しなくて」
答える代わりに、私は回された彼の手の甲にそっと触れた。
湿った舌の感触が首筋を這う。
ぞくりと背筋に電流が走り、甘い痺れが襲いかかった直後、鋭い歯が肌に触れる。
初めて吸血された夜と同じ。
あの時は恐怖と混乱で必死だったから、ろくに覚えてもいないけれど。
一瞬だけ、身体を芯から貫くような鮮烈な痛みが走った。
その後すぐに、傷口の周りが溶けるように熱くなる。
朔夜の柔らかな髪が私の頬を優しく撫で、耳元では、生々しい吸血の水音が響く。
「……ぁっ。……っ、は……」
身体の内側から、沸き立つような熱が込み上げてくる。
浅く乱れた呼吸が震えるたび、私の身体の奥底までが甘く、とろけるように痺れていく。
彼がようやく私を必要としてくれたのだという感覚が、胸の奥を満たしていく。
この熱が、彼の苦しみを少しでも和らげるなら。
この血が、彼を独りで立たせずに済むのなら。
お願い、離さないで。
このまま、私をずっと——。
混濁していく意識の中で、そんな縋るような願いだけが、私の頭を支配していった。
身体の前に回された彼の手に、自分の指を力強く重ねる。
彼が離れていかないように。
私が、彼を離さないように。
『離さないで』と言葉にはできないまま、指を絡める。
私はただ必死に、朔夜の腕の中へと深く深く、身を寄せていた。
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