第二十話 結界の向こうの戦場
深く息を吸い込んで、震えそうになる指先で自分の服を整えた。
新調された濃紅の番装束は、まだ肌に馴染まず、少しだけ落ち着かない。
借り物の衣装を纏っているような心細さがある。
けれど、その鮮やかな色彩は、確かに昨日までの自分とは違う場所にいるのだと、改めて実感させられた。
天幕の外へ出ると、山の空気は夜の深い名残を引きずったまま、刺すようにひやりとしていた。
木々の向こう、深く切り立った谷を挟んだ先に、静まり返った大きな村が見える。
人の暮らしがあるはずの場所なのに、煙も、声も、朝餉の匂いもない。
その不自然な静けさが、かえって恐ろしくなる。
その村をぐるりと囲むように、巨大なしめ縄が張り巡らされていた。
村の周囲だけ、空間が薄く揺らぐ膜のようなものに覆われている。
朝日を浴びて虹色に明滅するそれは、ほとんど透明で見えないのに、触れれば弾き返されるような、確かな拒絶の気配を湛えていた。
「梓様!おはようございます」
「あ、おはようございます」
声をかけてきたのは、昨日少しだけ言葉を交わした副官の番の女性。
「あの、あれって……」
「今は鬼を内側に閉じ込めているだけです。一度展開してしまえば、外から干渉することはできなくなります。例え、私たちが助けに入りたくても」
「……そんな、凄い結界なんですね」
あれが昨晩、朔夜が話していた結界。
実際の結界を目にしながら説明を聞くだけで、その異質さに喉が乾く。
結界の前には、すでに多くの鬼狩りたちが整列していた。
隊ごとに刺し色の違う隊服。肩に静かにとまる隊鳥たち。
まだ刀を抜き身にはしていない。
だというのに、誰もが鋭利な刃物のような殺気を帯びてそこに立っているだけで、近寄りがたい畏怖を周囲に振りまいていた。
まるで嵐の訪れを待つ刃の群れのように、静かで、張り詰めていて、恐ろしく美しい。
どこにいても、どんなに遠くからでも、朔夜の姿だけはすぐに見つけてしまう。
先頭に立ち、遠目からでも一目で分かる。
誰よりも静謐に、微動だにせず立っている。
けれど、その存在感は周囲を圧し、誰よりも強烈に私の目を引き寄せた。
あの背中が、これから死地へ入っていくと思うだけで、胸の奥がぎゅっと縮む。
あそこに朔夜が足を踏み入れてしまったら、終わるまでもう会うことができない。
やがて、野を震わせるような低い法螺貝の音が響き渡った。
結界の膜がひときわ強く明滅し、鬼狩りたちが一斉にその向こう側、異界へと踏み込んでいく。
一歩、また一歩。
彼らの姿が膜の向こうでわずかに歪み、やがて戦場の色に呑まれていった。
背後で見守る誰かが短く息を呑み、誰かが祈るように胸の前で手を組む。
私も気づけば、胸元の濃紅の紐を、強くきゅっと握りしめていた。
最初に聞こえてきたのは、遠すぎて現実味を欠いた金属音だった。
高く、乾いた、硬質な音。
それに混じって届くのは、人の喉を裂くような怒号。地を這うような叫び。
結界の膜に遮られているせいか、すべての音はくぐもって聞こえる。
けれど、その歪な響きだけで、向こう側でどれほど凄惨な光景が繰り広げられているのかが、嫌というほど伝わってきた。
「……本当に、大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫ではありません。だからこそ、番である私たちがいるんです」
隣にいた彼女が、自嘲気味に、けれど覚悟の決まった瞳で苦く笑った。
その言葉の真意を、本当の意味で知ることになったのは、それからほどなくしてのこと。
結界の端が一瞬だけ激しく揺らぎ、二人の鬼狩りが誰かを抱き抱えるようにして外へ飛び出してきた。
抱えられていたのは、まだ幼さの残る若い隊士。
腕から先がどす黒い血で真っ赤に染まり、肩口の布はズタズタに裂けている。
顔は青白く、唇だけがかすかに震えていた。
「三番隊一名、負傷!番はどこだ!!」
「はいっ!いきます!!」
呼ばれた勝色の装束の娘が、迷いなく駆け出す。
一瞬の躊躇もない。
まるで、これまでに何十回、何百回と繰り返してきた当然の日常であるかのように。
彼女が苦悶の表情を浮かべる隊士の前へ膝をつくと、男の顔から、死を覚悟したような張り詰めた緊張が、ほんの少しだけ緩むのが見えた。
血を分かち、命を繋ぎ止める。
理屈では分かっていた。
けれど、血の匂いが立ち込める中で、苦しむ人の元へ一歩も引かずに進める彼女たちの強さが、私には眩しい。
次に運ばれてきた者は、自力で歩いていた。
片足を引きずり、深く抉られた脇腹を必死に押さえながら、それでも「まだ戦える、戻らせてくれ」と鬼気迫る顔で食い下がっている。
周囲の隊士が必死になだめても、彼の視線は結界の向こうから離れない。
その次は、二人。
一人は額から鮮血を流し、もう一人は顔色が紙のように白く、今にも事切れそうだった。
番の娘たちが次々に呼ばれていく。
結界の外縁には、いつの間にか咽せるような血の匂いと、鼻を突く薬の匂いが混ざり始めていた。
薬箱を抱えた隊士が走り、包帯がほどかれ、誰かの押し殺した呻き声が足元を這う。
私は、自分の無力さを感じたまま、ただ立ち尽くすことしかできない。
その時だった。
また一人、担ぎ出されるようにして運ばれてくる影が見えた。
けれど、今度は誰も「番を」とは叫ばなかった。
運ばれてきたその人の腕は、力なくだらりと地面へ垂れ下がっていた。
血に濡れた指先は、もう何も掴んではいない。
駆け寄った隊士が必死に何かを話しかけているけれど、返事はなく、彼はそのまま力なくその場に膝を突いた。
誰かが小さく、悲鳴のような息を呑む。
別の誰かが、悼むようにそっと目を伏せる。
濃紅色の番装束を纏った娘が一歩踏み出しかけて、けれど隣の女性に肩を押さえられ、唇を噛んで立ち止まった。
救える命と、もう届かない命。
その境目が、こんなにもあっけなく目の前に引かれるのだと知り、足元が冷たくなっていく。
「これでも……これでも本当に、被害は少ない方なんですか……?」
「ええ。恐らく、睦月隊長が出ていなければ、犠牲は倍では済まなかったはずです」
私は結界の向こうへ視線を向けた。
くぐもった金属音の奥で、今も朔夜が戦っている。
あの人が強いことは分かっている。
それでも、強い人が必ず傷つかないわけではないのだと、今この場所が残酷なほど教えてくる。
胸元の濃紅の布を握る手に、さらに力が入った。
呼ばれたら走れ。
朔夜はそう言った。
どうか、呼ばれませんように。
けれど、もし呼ばれたなら。
私は今度こそ、迷わずあの人のもとへ走らなければならない。
唇を強く噛みしめたまま、朔夜のいるであろう村の中心の方角をじっと見つめる。
あの中で、今もあの人は戦っている。
深い傷を負っても、どれほど血を流しても、きっと誰にも弱音を吐かない。
その姿を想像するだけで、胸の奥が、焼けるように熱く疼いてしまう。
結界の向こう側では、なおも金属的な刃の音が響く。
けれど、先ほどまで絶え間なく運び出されていた負傷者の列は、ここしばらく途切れていた。
周囲に控えていた隊士たちの間にも、ほんのわずかに、安堵に似た空気が流れ始める。
「……今回は、予想より早く終わりそうだな」
「睦月隊長が自ら陣頭に立っているからな。あの人がいれば、掃討の速度が違う」
「このまま一気に押し切れれば——」
そんな希望に満ちた囁き声は、最後まで続くことはなかった。
ひゅ、と。
凍てつく空気を鋭く裂く、嫌な音が鼓膜を打った。
「伏せろ!!」
誰かの裂帛の怒声とほとんど同時に、私のすぐ隣で後方支援をしていた男性が、喉をかき抱くようにして崩れ落ちた。
指の隙間から、どろりとした赤黒い血が溢れ出し、地面を汚していく。
矢?
いいえ、違う。
形状は矢に似ている。
けれど、それは黒ずんだ骨を削り出したような、不気味な鈍い光沢を帯びていた。
羽根も、鏃も、私の知る矢とはまるで違う。
生き物の一部を、そのまま武器に変えたような、目にしただけで肌が粟立つ。
「結界の外だ!」
「鬼だ!結界の外にも鬼がいるぞ!!」
弾かれたように振り返る。
村を囲む結界の、さらに外側。
鬱蒼とした木々の濃い影の中に、無数の、ぎらぎらとした瞳が灯っていた。
飢えた獣そのものの、執拗で凶悪な光。
「な、んで……」
思わず、呆然とした声が漏れる。
鬼はすべて村の中に閉じ込めたはずではなかったのか。
逃げ場を失い、あとは狩られるのを待つだけではなかったのか。
なのに、どうして結界の外にまで、これほどの数が潜んでいるというのか——。
理解が追いつくより先に、あちこちで悲鳴が上がった。
「番を下げろ!最優先で後方に退避させろ!!」
「文箱を死守しろ!薬を奪われるな!」
「負傷者を中央へ寄せろ!結界から離せ!!」
さっきまで献身的に負傷者の手当てをしていた人々が、一斉にかき乱される。
番たちも、咄嗟に身を隠す者、目の前の負傷者を必死に庇う者、恐怖で動けずに立ちすくむ者で入り乱れ、戦場は一瞬にして混沌の渦に叩き落とされた。
彼らは、鬼であって、人を喰らう化け物と聞いていたのに。
まさか……結界に閉じ込められた同胞を救い出すために、逆襲を仕掛けてきたというのか。
鬼は仲間を増やすために人を襲うと聞いた。
彼らがもとは人間であったという事実が、鳥肌のようなおぞましい怖気とともに、はっきりと胸に落ちる。
人だったものが、人を喰らい、さらに同じものを増やしていく。
終わりの見えない地獄の連鎖が、今、目の前でこちらへ牙を剥いていた。
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