第5話 旅立ち
執務室に呼び出されたティアリは、目の前の義母がそれを読み終えるまで、毛先一本すら動かさずにじっと耐えていた。
やがて紙面から顔を上げたグレンダは、長い長いため息をつく。
「これはお前の創作か何かか?」
グレンダはそれを、つまらなさそうに摘み上げ、後ろに控えていたチュリンに乱雑に手渡した。
「魔法学院……あら、お姉様はこちらにご入学なさるの?」
扇子で顔を隠していても、わざとらしく声と肩を震わせているのがわかる。グレンダはそんな娘を「はしたない」と嗜めつつ、ティアリを睨めつける。
「まさかお前、こんな馬鹿げた話を本気にしている訳ではあるまいな?」
「……そのような、ことは」
「言ったはずだ。お前には既に適当な婚約相手を見繕ってあると。当主にならぬ女に学など必要ない」
グレンダは度々、昨今の教育制度に納得がいかないと文句を言う。自分が後六十年早く生まれていれば、教育制度の制定に甚大なる功績をもたらした【教育の母】ことエリシア・ユフィールに討論をしかけるのに、と。
「そうですわぁ、わたくしも、お姉様が家を出ていかれるなんて寂しいですもの。ね、お母様。お姉様の婚約相手とやらを教えてくださいな?」
「こいつ共々虐められる奴がいいと思ってな、気の弱そうな男を選んだ。隣町の男爵次男坊。林檎農家を営んでいる奴で、一度社交界で見かけたのだが……くく、甘い果実で太り切った、卑しい豚のような男だった」
「まあ、あのころころとしたロバート様! 小柄なお姉様には、案外お似合いかもしれませんわよ?」
失礼極まりない物言いに、ティアリは思わず顔を顰めた。それをグレンダは見逃さなかった。かつかつと靴音を鳴らし、ティアリに詰め寄る。
(しまった……!)
気ついた時にはもう遅い。獲物を見つけた猛禽類のような視線が、真っ直ぐに振り下ろされる。
「お前のその反抗的な目……実に久しいな。まだ甚振り足りないのか?」
「ち、が……っ!」
肩を掴まれる。動けない、怖い。息が苦しい。
「お前は学院に行きたいんじゃない。ここから逃げたいんだろう? チュリンから、そして魔女のような私から――」
「ごめんな、さ」
指先が震える。後退ろうとして、いつの間にか背後に回っていたチュリンに阻まれる。逃げられない。
(ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。逆らいません、もうそんな目で見ません、だから許して、ゆる、して)
力任せに目を瞑った、その時だった。
「――いい加減にしないか」
その場にいた全員が、声を発した人物に振り返った。
(……お父、さん?)
「……ティアリ、話がある。ついて来なさい」
ティアリの父、イーサンは義妹と義母に挟まれていた娘の手を強引に引き寄せ、すぐさま部屋を出た。
ティアリは父に手を引かれて裏庭までやって来た。常に日が当たる花壇の多い中庭と比べて、裏庭は薄暗くて寂しい。けれど二つしかない花壇には、まもなく咲くであろうスイートピーの蕾が、庭を静観するように鎮座していた。
そんな庭の端にひっそりと佇む、錆びれたガゼボ。父はその下にある椅子にティアリを座らせる。
ティアリは父を見つめた。自分と同じ色をした瞳が、憐憫によって少し濁っているように感じられる。
そう思った刹那、ティアリは父に抱き寄せられていた。父はただ一言、震える声で謝罪を口にする。
「――すまなかった」
突然の抱擁に驚いたけれど、ティアリは目を閉じて静かに父の肩に腕を回した。
「どうしてお父さんが謝るの?」
「今までのこと。……俺はお前に、辛い思いをさせてきた」
「それなら何度も謝ってくれてたじゃない。……わたし、わかってるもん。お父さんがわたしのために、あの人と結婚したってこと」
あの貧しい土地に住んでいた人々は、生活を苦にして都会へ出たり、違う町に移り住んだりしてほとんどがいなくなってしまった。残ったのはイーサンとティアリの二人だけだ。
ティアリは気づいていた。表立って口にしなくとも、生計を立てるのに苦労していたこと。娘に安寧を与えたい、その思いで棚から落ちてきた菓子を拾い上げたことも。
だから父を恨むことなんてない。むしろずっと感謝している。父がティアリの現状に負い目を感じているなら、それは違うと言いたかった。
「だから、辛いことがあっても平気」
父は抱き留める力を緩めて、娘と目を合わせる。
「お前は本当に、母さんに似て強い子だな。文句の一つも言わずに、黙って俺について来てくれた。だが俺はあいつを……シエナを幸せにできたと、胸を張って言えない」
母シエナはティアリが小さな頃に病に倒れ亡くなっている。優しい笑顔で娘を見守り、懸命に夫を支え続けてくれたシエナは、最期の瞬間まで恨み言一つ吐かなかった。ただ、残していく二人に「ありがとう」と言いながら、静かに息を引き取ったのだ。
「だからこそ俺は、お前の幸せを掴む道を作ってやりたい。今まで苦労をかけた分の償いに。
――なあ、ティアリ。お前は心の底から、学院に行きたいと思うか?」
「え……」
「レリア先生から話は聞いてる。お前の進路について、もう少し考えてみてくれって。……俺に気を遣わなくていい、自分の気持ちを教えてくれ」
まるであの不思議な入学試験の時みたい、とティアリは思った。
自分の素直な気持ち、それは願いに等しい。
(わたしの願い、叶えたいこと――本当に魔法があるなら、わたしはそれに近づきたい)
胸の前で拳を握り締める。深呼吸をする。
父はティアリの想いを嘲笑ったりなんてしない。ならば彼女もまた、父の真摯な想いに応えたいと、そう思う。
瞼の裏に蘇るのは、遠くに仕舞い込んでいた願いの詰まった宝箱。ティアリは鍵を差し込み、その箱を開け放った。
「……わたし、行きたい。行ってみたい。魔法学院に。魔法が本当にあるのか、見てみたい」
自分の目に映る世界を変える、そんな力を掴みたい。
――そう思った瞬間。
ガゼボの縁に停まっていた白い小鳥が、声を上げて青空へと飛び立っていった。それに一瞬気を取られたティアリがふと父を見遣れば、その頬には一筋の涙があった。
「……聞けてよかった」
父の言葉に、ティアリは破顔する。
そしてティアリは、父の肩越しにスイートピーの蕾が一つ、花開くのを見た。
俯いていた蕾は、暖かな陽の光を浴びながら、じっとこの時を待っていたのだろう。
春はもう、すぐそこまで迫っている。
それからは早かった。
次の日父はレリアと連絡を取り、アミキティア学院なる場所が実在することを確認した。さらにはあのグレンダに話をつけ、ティアリの学院行きを認めさせたのである。
どうやって義母を説得したの、と訊くと父は「頑張ったんだ。これ以上なく……頑張った」とだけ言った。まるで大収穫を終えたと言わんばかりの疲労と達成感に満ち溢れている父に、ティアリはそれ以上何も言わなかった。
「ありがとう、お父さん」
代わりに、とびっきりの笑顔を贈ったのであった。
*
アミキティア学院からの封書には、学院があるグベルナーレ島までの切符が入っていた。生徒は全員島にある寮に入るらしい。ティアリは切符を大事に鞄の中に仕舞い、邸前で父と共に馬車を待つ。
あの日以降、グレンダと顔を合わせることはなく、チュリンもばつが悪そうな顔でティアリを避けた。
父の話を聞いた彼女らがどんな心境に至ったのか。ティアリにとってそれは与り知らぬことであり、考えたところでさして意味を成さない。少なくとも、お互いが理解し合うには多少の時間が必要だとティアリは感じていた。
そんな二人が見送りに来ることはなく、ティアリは最後に一度、じっくりと豪奢な子爵邸を眺めることにした。
……自分は歓迎されていなかったのだろうと思う。それでも一応は面倒を見てくれた家。完全に気が晴れたわけではなかった。たった一人の侍女マアサが、喜びと同時に「寂しゅうございます」と涙を流してくれたことを思い出す。
もう虐められずに済むことに安堵する反面、マアサに会えなくなるのは寂しいと、切に思う。
(……どういう気持ち、なんだろう。よく、わからない)
神妙な面持ちで屋敷を見つめる娘に、父がそっと呼びかけた。
「ティアリ。……もうすぐ馬車が来る。忘れ物はないか」
蹄の音が近づく中、ティアリは屋敷に背を向ける。
名前の付けようのない、入り乱れた感情を嚥下し、ティアリは静かに頷いた。
父に手を引かれ馬車に乗り込み、州都へと向かう最中のこと。
「お父さん、その紙袋は何?」
目前の父が携えていた紙袋は、馬車の振動に合わせてかさかさと音を立てている。何かが入っているようだ。
父はそれをティアリに差し出した。不思議に思った彼女が中を覗くと、鮮やかな緑色のワンピースが入っていた。
「これ……あの時の」
父が買ってくれた、そしてチュリンに渡った後失ったドレスに、それはよく似ていた。
全体は深い緑に彩られ、襟元や袖口、二枚重ねのフリルの下は象牙色で引き締められている。正装に近い形状でありながら、それでいて特別すぎない。生地は風通しが良く、重ね着をすれば季節に関係なく着用できそうだ。
「……知ってたの。お父さんにもらったあの服を、失くしちゃったこと」
貰ったばかりの服を抱き締める。どんなに頑張っても、両手が震えてしまう。
「学院には休日もあるだろう? 私服は何着あってもいいと思ったんだ。……本当は屋敷で渡したかったんだが、あいつに見つかるとまた面倒になるから」
ティアリは溢れ出る想いで服を濡らさないように、丁寧に折りたたんで鞄に仕舞う。
「ありがとう、お父さん。……本当に、嬉しいよ……」
何度目かわからないありがとうを伝える。
久しぶりの語らいを楽しむ父娘二人を乗せた馬車は、数日の旅を経て、ついにフレーウム州都メルダスへと到着した。




